ページ

2011/11/22

【オウム真理教】94年2月、麻原彰晃は出家信者ら約80人で中国旅行に行った際に武力によって日本にオウム国家を建設し王になる意思を明確にした

オウム裁判:全公判終結(その1) 国家支配もくろみ
 オウム真理教元幹部、遠藤誠一被告(51)に対し、最高裁第1小法廷が21日、死刑維持の判決を言い渡したことで、教団を巡る一連の事件で起訴された189人全員の裁判が終結した。教団を率いた松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(56)が95年5月に逮捕されてから16年半。27人の尊い命が失われ(刑事裁判上の認定。08年施行のオウム真理教被害者救済法で新たに1人が死者認定され、松本サリン事件被害者の1人も08年に亡くなり、死者は計29人)、国家と時代を揺るがした事件と裁判をたどった。【石川淳一、村上尊一、銭場裕司、伊藤一郎、野口由紀】



 ◇教団の障害「ポア」

 オウム真理教による一連の事件について、松本死刑囚に対する東京地裁判決(04年2月27日)は、教祖である松本死刑囚が「武装化で教団の勢力拡大を図ろうとし、ついには救済の名の下に日本国を支配して王となることを空想し、現実にしようとした」と指摘した。発足から武装化、そして無差別テロに至り、犠牲者27人を出した「狂気の歩み」を確定判決などから追った。


 ■発足から拡大

 目が不自由だった松本死刑囚が教団の前身「オウム神仙の会」を発足させたのは84年。それまで東京都内でヨガ教室を開いていたが、「麻原彰晃」を名乗って雑誌に「空中浮揚」の写真を掲載。「修行すれば超能力者になれる」と説いてセミナーを開いた。86年にはヒマラヤで修行し「最終解脱をした」と称して出家制度を導入、出家者は親族との縁を絶って私財を寄付した。

 87年、名称を「オウム真理教」に変更。自らを「オウムの主宰神であるシバ大神とコンタクトの取れるグル(尊師)」と称し、自己を絶対化させた。100万円以上の寄付をした信者に、自身の血を飲ませる「血のイニシエーション」を施すなどしてさらに資金を集め、88年には静岡県富士宮市に富士山総本部を開設した。

 解脱や悟りに関心を寄せ、現代社会に不安や不満を持つ若者たちが、教団の唱える「人類救済計画」にひかれ、入信していった。「出家信者は100~200人、在家信者は3000~4000人」(東京地裁判決)に達し、教団はニューヨークにも進出。「ハルマゲドン(人類最終戦争)は不可避」として終末観をあおり、救済活動の重要性を説いた。


 ■武装化

 同時に、出家信者を巡るトラブルが顕在化した。89年には出家信者の親たちが、坂本堤弁護士(当時33歳)の支援で被害者の会を結成。これに対し松本死刑囚は、救済の障害になるものには非合法手段で対処する趣旨の発言をし「今ポア(殺害)しなければいけない人物」として坂本弁護士を名指しした。故村井秀夫元幹部や岡崎一明死刑囚(51)らが実行役となり同年11月、坂本弁護士一家を殺害した。

 教団勢力拡大のため、松本死刑囚は90年の衆院選に「真理党」として幹部を率いて立候補した。だが、惨敗すると、幹部ら二十数人を集めて「現代人は生きながらにして悪業を積む。全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」と無差別大量殺人の実行を宣言以降、ボツリヌス菌の培養やのちに殺害した元信者らの遺体を焼くのに利用したプラズマ兵器の製造などを幹部に指示、武装化を進めた。

 このため理系出身の優秀な信者獲得を図り、筑波大大学院化学研究科にいた土谷正実死刑囚(46)や、東京大大学院で物理学を専攻した豊田亨死刑囚(43)らを出家させた93年、土谷死刑囚がサリンの生成に成功すると、松本死刑囚は「いきなり大きいのでいこう」と70トンのサリンプラント建設を命じた

 94年2月、出家信者ら約80人で中国旅行に行った際には「97年、私は王になる。03年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇(あだ)なす者はできるだけ早く殺さなければならない」などと説法。武力によって日本にオウム国家を建設し、王になる意思を明確にした。


 ■無差別テロへ

 中国から帰国した直後、発言はさらにエスカレート「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70トンぶちまくしかない」と述べ、一部の幹部にプラント設計を急ぐよう指示した。その一方で一般信者には武装化の実態を隠し、「教団が国家権力から毒ガス攻撃を受け危機的状況だ」と強調。国家権力への敵がい心をあおった。また教団に省庁制を導入し、自らの国家建設に備えた。

 94年5月にはオウム真理教被害対策弁護団の滝本太郎弁護士をサリンで襲撃し、殺傷能力を確認。同6月には教団進出を巡って住民側と対立していた長野県松本市でサリンをまく松本サリン事件を起こした。その後はサリンの使用を控え、猛毒のVXを生成して1人を殺害、2人に傷害を負わせた。

 95年に入ると、警察当局による教団への強制捜査が現実味を帯びた。3月18日未明、松本死刑囚の専用リムジンに村井元幹部ら数人の幹部が乗り込み、その場で村井元幹部が都心の地下鉄でサリンをまくことを提案。松本死刑囚は村井元幹部に総指揮を命令、遠藤被告にサリン生成を、井上嘉浩死刑囚(41)には現場指揮を指示し、地下鉄サリン事件の実行を共謀した。首都東京の中心部を通る地下鉄を狙った大量無差別殺人事件は3月20日午前、発生した。



==============

 オウム真理教を巡る一連の事件で起訴された教団幹部らは計189人。このうち11人の死刑が確定し、18日に中川智正被告(49)、21日には遠藤誠一被告(51)に対する死刑維持の判決が最高裁で言い渡された。2人は10日以内に判決訂正の申し立てができるが、量刑が見直されることはないとみられ、計13人の死刑が確定することになる。


 ■無期懲役は5人

 無期懲役は5人。このうち地下鉄サリン事件の実行役だった林郁夫受刑者(64)に対しては、東京地裁が98年5月26日、事件の解明に貢献した捜査段階での供述を「自首」に当たると判断、減軽して無期懲役判決を言い渡した。

 このほか有期懲役判決が80人、執行猶予付き判決が87人、罰金が3人。


 ■金属探知機も

 最初の起訴は95年4月12日。山梨県上九一色村(当時)の教団施設内に信者らを監禁したとされる事件で、教団付属医院医師ら3人に対し公判請求された。このうち1人は全事件の中で唯一、全面無罪が確定している。

 初公判は95年7月17日で、東京都港区のビル駐車場に侵入したなどとして建造物侵入罪などに問われた元信者の裁判だった。裁判所は不測の事態に備え、庁内各所に職員を立て、周囲との境界では防犯センサーを稼働させ、金属探知機による検査や手荷物検査も行った。


 ■初公判から16年

 18日に最高裁判決のあった中川被告の1審初公判は95年10月24日、21日の遠藤被告は95年11月14日で、ともに初公判から最高裁判決まで16年余の歳月を費やした。

 一方、松本智津夫死刑囚(56)の初公判は95年10月26日の予定日の前日、弁護人を突然解任して延期となり、約半年後の96年4月24日にようやく開かれた。この日の傍聴希望者1万2292人は今も東京地裁で最も多い記録となっている。


 ■異例の死刑確定

 松本死刑囚の1審公判は257回。延べ522人を証人尋問し、04年2月27日の判決まで約7年10カ月かかった。それでも公判の長期化を避けるため、検察は公判途中に地下鉄、松本両サリン事件の負傷者3920人を起訴内容から撤回、さらに覚醒剤密造など薬物4事件の起訴も取り消す異例の手続きで臨んだ。

 控訴審では弁護側が期限までに控訴趣意書を提出せず、一度も公判を開かないまま東京高裁が控訴を棄却する異例の展開に。弁護側は異議を申し立て、最高裁に特別抗告したが、06年9月15日、最高裁第3小法廷は特別抗告を棄却。松本死刑囚の死刑が確定した。


◇松本死刑囚の有罪が確定した13事件
 松本死刑囚の有罪が確定した13事件の犯罪内容(いずれも教団幹部らとの共謀、年齢は当時)。

(1)田口修二さん殺害(殺人)=88年に静岡県富士宮市の富士山総本部道場で起きた在家信者死亡事件の口封じのため、89年2月、総本部向かいにある独房修行用に改造したコンテナ内で、脱会しようとした田口修二さん(21)の首を絞め殺害

(2)坂本堤弁護士一家殺害(殺人)=オウム真理教被害者の会を支援していた坂本堤弁護士(33)の排除を計画し89年11月4日未明、横浜市磯子区の坂本弁護士方で、坂本弁護士と妻都子(さとこ)さん(29)、長男龍彦ちゃん(1歳2カ月)の3人の首を絞めるなどして殺害

(3)サリンプラント建設(殺人予備)=教団武装化の一環として、化学兵器のサリンをプラントで大量生成することを計画。93年11月~94年12月、山梨県上九一色村(当時)でプラントをほぼ完成させ作動させた

(4)落田耕太郎さん殺害(殺人、死体損壊)=94年1月30日未明、上九一色村の第2サティアンで、脱走後に他の信者を連れ出そうと教団施設に侵入した落田耕太郎さん(29)の首を絞め殺害。遺体をマイクロ波加熱装置とドラム缶を組み合わせた「マイクロ波焼却装置」で焼いた

(5)滝本太郎弁護士サリン襲撃(殺人未遂)=オウム真理教被害対策弁護団で活動していた滝本太郎弁護士(37)を排除しようと94年5月9日、甲府市の甲府地裁西側駐車場に止まっていた滝本弁護士の乗用車にサリンを流入させ、サリン中毒症の傷害を負わせた

(6)自動小銃密造(武器等製造法違反)ロシア製自動小銃「AK74」を模倣した銃約1000丁を94年6月~95年3月、上九一色村の第11サティアンなどで製造しようとした

(7)松本サリン(殺人、殺人未遂)=サリンの殺傷能力を確かめるため、教団進出に反対する住民との裁判が係属していた長野地裁松本支部の裁判官や周辺住民の殺害を計画。94年6月27日夜、長野県松本市内でサリンを発散させ、伊藤友視さん(26)▽阿部裕太さん(19)▽安元三井さん(29)▽室岡憲二さん(53)▽瀬島民子さん(35)▽榎田哲二さん(45)▽小林豊さん(23)--の計7人を殺害、住民4人に重傷を負わせた

(8)冨田俊男さん殺害(殺人、死体損壊)=警察のスパイに仕立て上げようとした信者の冨田俊男さん(27)を拷問したがスパイと認めず、口封じを計画。94年7月10日、第2サティアンで絞殺し遺体をマイクロ波焼却装置で焼いた

(9)水野昇さん襲撃(殺人未遂)=94年12月2日、東京都中野区の路上で、教団を脱会しようとした知人の信者を支援していた水野昇さん(82)の後頭部に注射器を使って猛毒のVXを掛け、VX中毒症の傷害を負わせた

(10)浜口忠仁さん殺害(殺人)=大阪市の会社員、浜口忠仁さん(28)を警察のスパイと疑い、94年12月12日、同市淀川区の路上で注射器内のVXを掛け、同月22日、中毒死させた

(11)永岡弘行さん襲撃(殺人未遂)=オウム真理教被害者の会会長、永岡弘行さん(56)に95年1月4日、東京都港区の路上で注射器内のVXを掛け、中毒症の傷害を負わせた

(12)仮谷清志さん拉致監禁致死(逮捕監禁致死、死体損壊)=信者の居場所を聞き出そうと95年2月28日、東京都品川区の路上で、信者の兄の仮谷清志さん(68)を拉致し第2サティアンに監禁。3月1日、全身麻酔薬の副作用による心不全で死なせ、遺体をマイクロ波焼却装置で焼いた

(13)地下鉄サリン(殺人、殺人未遂)=警察による強制捜査を回避するため不特定多数の人を殺害して混乱を起こそうと計画。95年3月20日朝、東京の地下鉄3路線(日比谷線、千代田線、丸ノ内線)の電車内でサリンを発散させ、乗客の岩田孝子さん(33)▽和田栄二さん(29)▽坂井津那さん(50)▽小島肇さん(42)▽藤本武男さん(64)▽田中克明さん(53)▽伊藤愛さん(21)▽岡田三夫さん(51)▽渡辺春吉さん(92)▽中越辰雄さん(54)と、駅員の高橋一正さん(50)▽菱沼恒夫さん(51)--の計12人を殺害、乗客14人に重傷を負わせた

毎日新聞 2011年11月22日 東京朝刊

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111122ddm010040005000c.html














自分用のMEMOです

94年、麻原一行は中国の南京で「朱元璋巡り」

1994年2月22日より、麻原彰晃一行は中国を訪問した。この旅行には、村井秀夫、新実智光、井上嘉浩、早川紀代秀、遠藤誠一、中川智正らの教団幹部が同行した。麻原はの太祖朱元璋の生まれ変わりを自称しており、南京(朱元璋時代の明の首都)の孝陵(朱元璋の陵墓)などの縁の地を巡った。旅の途中、麻原は「1997年、私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なす者はできるだけ早くポア(殺害)しなければならない」と説法し、日本国を武力で打倒して「オウム国家」を建設し、更には世界征服をも念頭に置いている旨を明らかにした。

帰国後の2月27日には、都内のホテルで「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70トンぶちまくしかない」と話した



朱元璋と孫文
孫文が辛亥革命を起こして清を打倒し、中華民国を建国した後に朱元璋の陵を訪れ、漢民族の国家の復活を報告している。



明孝陵(みんこうりょう)は中国の南京の東にある紫金山の南麓に位置にあるの太祖洪武帝朱元璋と后妃の陵墓。現在は北京の明の十三陵とともに、世界文化遺産である。この陵墓は蒋山寺と呼ばれていた霊谷寺を移転し、その地に造営された。造営には25年の歳月が費やされた。

1961年に中華人民共和国国務院により「全国重点文物保護単位」に指定。2003年7月3日にユネスコの世界文化遺産に登録された「明・清王朝の皇帝墓群」の一部を成す。方城の北にある宝頂(宝城)の地下に朱元璋と馬皇后が眠る地下宮殿「玄宮」がある。しかし、地下宮殿は未発掘のために多くの謎が残されている。

周辺には神道、梅花山、紅楼芸文苑、海底世界、定林山庄、紫霞湖があり明孝陵を中心とした観光区を「明孝陵景区」としている。世界文化遺産に登録されているが、外国人観光客は少なめである。しかし、見学者は多く、中国各地から団体で観光客が訪れる。朱元璋が葬られている宝頂には登ることができる。2月は近くの梅花山の梅が見ごろで観光イベントが行われている。梅花山には三国志の呉の孫権の墓もある。明孝陵周辺には中山陵や霊谷寺といった観光地があり南京の主要観光地となっている。



中山陵(ちゅうざんりょう)は中華人民共和国江蘇省南京市東部の紫金山に位置する孫中山(孫文)の陵墓。1926年から1929年にかけて建設された。



孫文の号、「中山」について

呼称・号
 譜名は徳明 (Démíng)、字は載之、号は日新 (Rìxīn) 、逸仙 (Yìxiān) または中山 (Zhōngshān)、幼名は帝象 (Dìxiàng)。他に中山樵、高野長雄がある。中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。

号の由来
孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。

中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学および中華民国の国立中山大学、現在中国や台湾にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。

生涯 生い立ち
清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の客家の農家に生まれる。アメリカ新領のハワイにいた兄の孫眉を頼り、ホノルル市のプナホウ・スクールに学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻された。帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。


中山邸について

『華族鑑 新刻』 青山長格/編 明治27
   東宮侍従長 貴族院議員 従四位侯爵 中山孝麿

中山孝麿の住所 東京市麹町區有樂町一丁目三番地
 http://map.goo.ne.jp/
(千代田区有楽町1丁目で検索 地図上の 古地図・明治 をクリック)


お堀を挟んで向かいは楠公さん…





中山家(なかやまけ)は、羽林家の家格を有する公家。江戸時代の家禄は200石。

藤原北家花山院家の支流。花山院忠宗の子中山忠親を祖とする。江戸時代後期の当主の愛親(なるちか)は、尊号一件の際に、老中松平定信と対決して正親町公明と共に処分された。

愛親の曾孫の忠能(ただやす)は明治天皇の生母慶子(よしこ)の父であり、幕末から、明治維新にかけて活躍し、条約勅許に反対、和宮親子内親王の降嫁を推進した。忠能の七男、忠光は尊王攘夷派の急先鋒で天誅組の首領とされたが、後に長州藩の刺客により暗殺された(天誅組の変)。

明治維新後には、幕末からの功績を認められて忠能は侯爵に叙せられ、神祇伯を務めた。忠能の孫の孝麿は東宮侍従長や東宮大夫、宮中顧問官を歴任した。




中山 慶子(なかやま よしこ、天保6年11月28日〈1836年1月16日〉 - 1907年(明治40年)10月5日)は、明治天皇の生母。孝明天皇の側室。号は中山一位局など。権大納言・中山忠能(1809年 - 1888年)の次女で、母は平戸藩主・松浦清(靜山)の十一女・愛子。侯爵を授けられた忠愛は長兄。天誅組の主将・忠光は同母弟。従一位勲一等。

天保6年11月28日(1836年1月16日)、京都石薬師に生まれ、八瀬(現京都市左京区八瀬)に里子に出されて育つ。17歳で典侍御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、実家中山邸において皇子祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。

祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。

慶応3年(1867年)1月9日、睦仁親王が践祚。同年4月、慶子は病のため辞していた典侍に再任される。慶応4年(1868年)8月4日、従三位及び食禄五百石と屋敷地を賜わり、翌々年9月7日、さらに従二位に叙せられた。明治3年(1870年)9月、遷都に伴い東京に移住。

1879年(明治12年)に生まれた嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育掛となり、1889年(明治22年)まで親王の養育を任せられた。同年正二位。

明治維新による女院号廃止のため院号宣下は無かったが、国母として相応に厚遇された。1900年(明治33年)1月15日、大患により従一位に昇叙。同17日、人臣で初めて勲一等宝冠章を授けられた。1907年(明治40年)10月5日、東京青山南町の邸にて薨去。享年73。豊島岡墓地に埋葬される。






長州で佐幕派に殺害されたとされる中山忠光。
忠光の長州での妻妾、恩田トミ(赤間関の船宿の娘とされている)とその遺児、仲子。
仲子は長府藩主の養女として11歳まで養育されたのち、中山家に迎えられ、嵯峨公勝の正室となり、孫娘に愛新覚羅浩。


中山家についてはまた時間を見つけて続けます。