明応7年(1498年)「明応東海地震」 津波、海抜36メートル超え 73日前には南海地震が発生か
津波、海抜36メートル超到達か 1498年「明応東海地震」
静岡・沼津の被害推定 東大地震研「防災見直しを」
2011/9/16付
室町時代の1498年に発生した大地震「明応東海地震」で、古文書の記録や伝承から、静岡県沼津市で津波が斜面を駆け上り海抜36メートルを超える地点まで達していた可能性があることが16日までに、東京大学地震研究所などの調査で分かった。東日本大震災では、岩手県宮古市の斜面を39.7メートルまで津波がさかのぼったとする報告がある。
静岡県は東海地震の津波被害の想定として1854年の安政東海地震を目安としているが、東大地震研の都司嘉宣准教授は「明応東海地震の津波の高さは安政東海地震の3~4倍あり、防災指針を見直すべきだ」としている。国の地震調査研究推進本部によると、明応東海地震は東海沖から四国沖の海底にある溝状の地形「南海トラフ」沿いに起きた大地震。マグニチュード(M)は8.3程度で、津波が紀伊半島から房総半島まで達したとされている。
都司准教授によると、寺院が記録した古文書などにより浸水場所を調査し、現地で測量。明応東海地震では、沼津市戸田の集落の「平目平」と呼ばれる地点まで津波が到達したとの伝承があり、海抜を測定すると36.4メートルだった。平目平という地名も、当時の津波でそこまでヒラメが打ち上げられたという言い伝えに由来するという。
また中部電力浜岡原子力発電所(御前崎市)から30~40キロの磐田市掛塚でも海抜10メートルの場所まで浸水した可能性があった。
都司准教授は「今後、津波によって運ばれてきた海の砂の層がないか調べたい」としている。
南海地震連動の可能性
明応地震の歴史記録は、東海・東南海地震のみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高い南海地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は応仁の乱の時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性が高いとされる。
1988年、高知県中村市四万十川支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から15世紀末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。
徳島県板野町の吉野川沖積低地では14世紀後半から16世紀初頭までに存続した集落跡の調査で、液状化現象による噴砂の痕跡が発見された。加えて、愛媛県新居浜市の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述が存在することが判明し、四国における15世紀末頃の大地震の記録・痕跡が相次いで発見されている。
また、明応7年6月11日(グレゴリオ暦1498年7月9日、ユリウス暦1498年6月30日)には九州において家屋倒壊被害の記録があり、伊予では陥没などの地変を筆頭に日向灘地震と推定される地震の記録があったが、同日には畿内でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている。
さらに同日、紀ノ川で津波があり、中国の江蘇省、浙江省では揚子江を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や安政南海地震でも観測されていることから、上述の日向灘地震は南海地震に含まれる、あるいは南海地震と連動した可能性も指摘されている。これが事実ならば、南海地震が東海・東南海地震に73日先行して発生したことになる。