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2011/05/31

警察などは「承知していない」としているが、餓死に近いケースはありうる

被災地で「餓死12人」の真偽 国会議員の指摘に大反響
2011/5/31 19:57
被災地の福島県南相馬市などで餓死者が12人も出たと自民党の森まさこ参院議員が指摘して、反響を呼んでいる。警察などは「承知していない」としているが、餓死に近いケースはありうるようなのだ。

きっかけは、森まさこ参院議員が2011年5月26日の参院法務委員会で質問したことだった。






警察などは「承知していない」
森氏はツイッターでも明かしており、それによると、福島県警の嘱託とみられる死体の監察医から5月20日にメールがあった。そこでは南相馬市などで震災後に餓死者が出たとあり、森氏が23日に電話すると、この監察医は、3月下旬から4月上旬ごろまでに12人もが餓死したと明かした。死体検分書には、餓死という欄がなく「衰弱死」と記したという。

その後、森氏が南相馬市の戸籍係に問い合わせたところ、震災後に衰弱死した人が7人いたと、5月28日に回答があった、という。

南相馬市では、原発事故後に屋内退避地域に指定されるなどして、一時生活物資に不足する状況にあった。桜井勝延市長が3月下旬、ユーチューブでこの状況を「兵糧攻め」と訴えて、世界から反響があったほどだ。

こうした状況の中で、ついに餓死者も出ていたことになるのか。

森氏の国会質問に対し、小宮山洋子厚労副大臣は答弁で、「自宅に留まられた方に救援物資が届かなかったと言うケースも考えられる」としながらも、「そうした事実は把握していない」と述べた。

また、南相馬署の副署長は、取材に対し、餓死者について「承知していない」と答えた。どの監察医が情報源かも分からないという。南相馬市の災害対策本部でも、「衰弱死の7人が、餓死かは分かっていません」とした。

厚労省の災害救助対策室でも、それ以上の情報はないという。

しかし、餓死と断言できなくても、震災がらみで衰弱死することはないのか。

この点について、南相馬市内のある内科医は、そんな例があったと明かした。


震災がらみで衰弱死する例はあった
「うちの患者さんなんですが、震災後に衰弱して亡くなった80代のおばあちゃんがいたんですよ。体が不自由だったため避難せず、息子は、食べ物を家に残し、枕元にも、おむすび3つを置いて家を出ました。3日後に避難から戻るつもりだったんですが、いざ家に戻ると、おむすびも食べずに亡くなっていました。これは、震災がらみの例と言えると思います」
高齢者には、車もなく買い物に出る体力もない人が多く、中には自力で食べられない人もいる。また、南相馬市に支援物資が山と届いても、市内にそれを配達する人もいない状況だ。息子などもいない高齢者には、震災後は介護の手もなかなか届かなかった。こうした中では、衰弱死する高齢者がいても不思議ではないという。

この内科医は、衰弱死には、老衰も含まれるのではないかとしたが、違う見方をする別の内科医もいた。この内科医は、こう言う。

「老衰なら、『老衰』と書きますし、『衰弱死』とは書かないでしょう。こう書くと、食べ物を与えられないなどして、衰弱しなくてもいいのにそうして亡くなったという意味が感じられます。避難を促されても家を出たくないという体が不自由なお年寄りなら、衰弱死する可能性はあると思いますね」
衰弱死に老衰も含まれるかについて、南相馬市の市民課では、医師が書くものなのでよく分からないとしながらも、死亡届には、「老衰」の記載もあることを認めた。そして、「衰弱死」の記載も多いかについては、「そんなに見ないと思います」と明かした。

つまり、7人もいるということは、震災がらみの可能性があるということのようだ。








その時 何が(12)市長とユーチューブ(南相馬)
◎SOS、世界に反響/理不尽な窮状、怒り発信

 米誌タイムは4月21日、2011年版「世界で最も影響力のある100人」の一人に、福島第1原発事故での政府の対応をインターネットの動画投稿サイト「ユーチューブ」で批判し、世界に支援を訴えた南相馬市の桜井勝延市長(55)を選出した。市長は防災服姿で11分13秒、切々と「SOS」を発信した。

 「南相馬市長の桜井勝延です」
 3月24日午後9時、南相馬市役所の市長応接室。桜井市長は「相馬野馬追」のポスターが張られた壁の前で語り始めた。
 「市職員は放射能汚染の恐怖と闘いながら、必死に市民の生活を支えている。自己責任でのボランティアの協力をお願いしたい」
 目の前にあるのは、ハンディカメラ。ユーチューブへ投稿する動画の収録だった。

 東日本大震災が発生した3月11日の夜、南相馬市役所は津波を逃れてきた人や、家族の安否確認に訪れる市民らでごった返した。桜井市長は、情報を求めるマスコミの対応に追われていた。
 翌12日、様相は一変する。福島第1原発1号機の建屋が水素爆発を起こした。14日には3号機建屋も爆発。政府は15日、原発から20キロ圏を避難圏、南相馬市の原町区を含む30キロ圏を屋内退避圏に設定し、外出を制限した。

 市内は危機的な状況に陥った。屋内退避は本来、数日間を想定した措置だが、原発事故が収束せず、解除される見通しは立たない。食料や燃料が届かなくなり、スタッフが避難した医療機関は機能停止寸前となった。

 津波の被害を受けた沿岸部の行方不明者捜索も進まない。「国に見殺しにされたようだ」と市職員の一人は嘆いた。

 理不尽な状態に、桜井市長は怒りを募らせていた。地域の実態を無視した国の区域設定。事故の状況を全く報告してこない東京電力―。

 「最初はあれだけいたマスコミも、潮が引くように姿を消した」。安全な場所から電話インタビューを申し込んでくるテレビ局に「メディアの本質を見た」とも感じた。

 「ユーチューブ」への投稿は、市を訪れていた男性ボランティアのアイデアだった。「あらゆる手段で窮状を訴えたい」。迷いはなかった。

 タイトルは「SOS from Mayor of Minami Soma City」(南相馬市長からのSOS)。
 圧倒的な情報不足と、ガソリンがなく自主避難もままならない現状を「兵糧攻め」と表現した。

 「市内には約2万人の市民が残っている。食料は不足し、宅配しようにもガソリンがない。持ち込める方はガソリンを持ってきてほしい」

 海外での閲覧を想定し、英語の字幕を付けた。反響は期待していなかったが、投稿翌日から問い合わせが相次ぎ、海外メディアからの取材依頼が殺到した。
 「あれで流れが変わった」。サイトを見た東京や新潟県のNPOが、大量の救援物資を運んで来た。ピーク時には700人近くのボランティアが訪れた。ネットの威力を実感した。
 南相馬市は現在、立ち入り禁止の警戒区域、場合によって避難が必要な緊急時避難準備区域などに分断されている。

 警戒区域内への一時帰宅は始まったが、市内の避難所ではまだ400人以上が暮らす。子どもたちは区域外に開設された臨時教室にバス通学している。
 「世界の100人」に選ばれても、桜井市長に特別な感情はない。「市民生活の安定が第一。市の知名度が上がり、支援の輪が広がればそれでいい」。今後もネットを活用し、市の復興構想などを発信するという。(加藤敦)


2011年05月27日金曜日