9.04.2011, 15:03
今から25年前にチェルノブイリ原発事故がおきた。この技術災害はIAEA(国際原子力機関)の定める国際原子力事象評価尺度で最悪の7レベルを記録している。
チェルノブイリ原発4号基が爆発音を轟かせたのは1986年4月26日早朝のことだった。原子爆弾が投下された後にあがる原爆キノコに似た強烈な色の炎の柱が立ち上がり、原発の作業員らの住む、近郊の町プリピャチを鮮やかに照らした。この爆発で原子炉から燃料棒が空中へ飛び出し、防御壁が吹き飛んだ。吹いていた風は遠く離れた町まで放射能に汚染された雲を運んだ。http://japanese.ruvr.ru/2011/04/09/48693988.html
ところが当日の朝、事故の被害の規模について知っていたのはほんの一握りの人たちだけだった。プリピャチの住人に対しては放射能漏れの情報はまったく伝えられておらず、緊急避難が開始されたのは2晩過ぎてからだった。ペットを連れ出すことも禁じられ、3日目には家に戻ることを約束されて避難が行われたものの、その後自宅に、プリピャチに戻ったものは皆無だった。原発から30キロメートル圏内からは11万5000人が避難させられた。事故による放射能汚染で最も大きな被害を被ったのはウクライナ北部、ベラルーシ南部、ロシア西部である。
その一方で原発では自らを省みない英雄的な人たちによる事故処理作業が続けられていた。事故処理に加わった人たちは旧ソ連の共和国全体で20万人に及んだ。その多くが放射線や悪性腫瘍のために亡くなっている。 平和的な原子力というイメージはまったく損なわれた。世界中で新たな原発の建設反対を叫ぶ声が上げられ、パニックに似た情況を呈した。チェルノブイリは原子力災害のシンボルとなった。このことから日本の福島第1原発の事故がチェルノブイリと比較されるのも偶然ではない。
チェルノブイリ原発から30キロメートル圏内の土壌からは、半減期が長い放射線セシウム137、ストロンチウム90、プルトニウムが未だに検出されており、汚染濃度は依然として高い。放射線の線量を測定する機械は常にガンマー線を検出している。ところがこうした危険にもかかわらず、現地には未だに600人が暮らし続けている。そのほとんどが高齢者で農作物を栽培し、家畜を飼育している。放射能の危険については、彼らは信じようとしない。危険を冒して30キロ圏内にやってくるツーリストらに対して、老人たちは自分たちを犯す放射能は感じないし、見えないと語る。専門家らは、自然界がしだいに回復に向かっていることを指摘している。ガンマー線は検出されつづけているものの、以前ほど高い数値ではない。これについて専門家の一人、レオニード・ボリシェフ氏は次のように語る。
「ブリャンスク州ではまだ、副業経営の農村で牛乳に汚染が見られる地帯が多少ある。またこれも小さい範囲だが野いちごに汚染が見られる場所もある。ただ、住民に危害を及ぼすような汚染はすでにない」
チェルノブイリ原発自体も誰もいなくなったわけではない。瓦礫を集め、事故を起こさなかった3基の原子炉を動かす作業員たちはいる。ただし、チェルノブイリに4日間以上続けて滞在することは禁じられている。事故を起こした4号基は石棺で固められたままだが、時が経過してセメントにも亀裂が生じている。この上にさらに新たなセメントの層を作ることが急務だが、国際的な援助もなくウクライナ一国ではこの問題は解決できない。ロシアはすでに450億ドルの資金を割いている。