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2011/12/27

福島第一原発事故 政府事故調査・検証委員会 中間報告要旨=1

東日本大震災:福島第1原発事故 政府事故調中間報告 要旨(その1)
 東京電力福島第1原発事故を受けて設置された政府の事故調査・検証委員会(委員長=畑村洋太郎東京大名誉教授)が26日、中間報告書を公表した。要旨は次の通り。(文中の肩書は当時)



1・はじめに

(略)

2・事故の概要

1 原発の概要

 地震発生時、東電社員約750人と協力企業の従業員計約5600人が勤めていた。

2 地震と津波の発生

 原発は、東北地方太平洋沖地震と津波に見舞われた。地震規模はマグニチュード(M)9・0。立地する大熊、双葉両町で観測した最高震度は6強。津波は高さ15メートルを超え、1~4号機の区域は最大約5・5メートルの深さで浸水。5、6号機の区域は1・5メートル以下の深さだった。

3 被害概要

 地震発生時は、1~3号機が運転中で、直ちに原子炉に全制御棒を挿入、運転を止めたとみられる。

 地震と津波で外部電源と発電所に備えられていたほぼすべての交流電源が失われ、原子炉や使用済み燃料プールが冷却不能に陥った。1、3、4号機は炉心損傷で大量に発生した水素が原子炉建屋に充満したことによると思われる爆発が発生した。2号機も炉心が損傷したと考えられる。

4 事故に伴う被災

 第1原発からは大量の放射性物質が放出された。総放出量のヨウ素換算値は、経済産業省原子力安全・保安院が約77万テラベクレル(テラは1兆倍)、内閣府原子力安全委員会が約57万テラベクレルと推計。福島県では10月末までに約23万2000人が被ばく調査を受け、102人が全身除染の基準を超えた。


3・発生後の組織対応

1 原子力災害対策特措法、防災基本計画に定められた対応(略)

2 事故発生後の国の対応

 3月11日午後2時46分の地震発生直後、官邸は各省の局長級幹部らを官邸危機管理センターに緊急参集チームとして招集。

 政府は同7時3分に原子力緊急事態宣言を発出し、菅直人首相を本部長とする原子力災害対策本部(原災本部)を官邸に、現地対策本部を福島第1原発から約5キロに立地する緊急事態応急対策拠点施設(オフサイトセンター)に、原災本部事務局を保安院の緊急時対応センター(ERC)にそれぞれ設置した。

 ERCの情報入手・伝達は遅れ気味だった。さらに、東電本店やオフサイトセンターが社内のテレビ会議システムで原発の情報をリアルタイムで得ていることも把握していなかった。緊急参集チームは官邸地下では情報保全のため通常時から携帯電話が使えず、迅速な情報収集が困難だった。また、電話回線が混雑し、ファクスによる情報収集も困難だった。

 首相執務室のある官邸5階では、菅首相の要請に応じ、寺坂信昭保安院長、東電の武黒一郎フェローら幹部社員、班目春樹原子力安全委員長、原子炉メーカーの幹部らが事故対応について関係閣僚と協議した。原発の情報収集が期待された武黒フェローらは当初、官邸で連絡要員を務めるのは一時的と認識していたため情報入手を携帯電話に依存。情報を十分得られず、1号機の水素爆発をテレビ報道で初めて知る状況だった。

3 事故発生後の福島県の対応

 地震で県庁舎が使用できなくなったため、隣の自治会館3階に県災害対策本部を設置。

4 事故発生後の東電の対応

 11日午後3時42分、第1原発の吉田昌郎所長は全交流電源が喪失する原災法10条事象になったと判断し、第1原発と本店はそれぞれ緊急時対策本部を設置した。双方の対策本部はテレビ会議システムを通じリアルタイムで情報を共有し、対応を協議。本店は具体的な対策の最終判断は基本的に吉田所長に委ねた。

 政府と東電は15日午前5時半ごろ、東電本店に統合本部を設置した。

5 事故発生後のオフサイトセンターの対応

 オフサイトセンターには放射性物質を遮断する空気浄化フィルターがなく、放射線量が上昇、要員は3月15日に福島県庁に退去した。


4・事故対応

1 地震発生後、津波到達まで

 発電所対策本部は免震重要棟2階の緊急時対策室に置かれ、メーンテーブルには本部長の吉田所長、発電班、復旧班など各機能班の班長が座った。当直、発電所対策本部、本店はいずれも津波が到達して全交流電源が喪失するまで、あらかじめ定められた手順に従って操作すれば、各号機とも冷温停止できると考えていた。

 11日午後2時52分、1号機で炉内の圧力が高まった。非常用復水器(IC)2系統が自動起動した。1、2号機の冷却注水設備にはICと原子炉隔離時冷却系(RCIC)、高圧注水系(HPCI)もあった。当直は通常の手順に従い、1号機はICで、2号機はRCICで原子炉の圧力制御を行い、原子炉水位が低下した際はそれぞれHPCIを起動させようと考えた。

「福島第1原発原子炉施設保安規定」では原子炉冷却材温度変化率は毎時55度以下と定め運転上の制限としている。午後3時3分、当直は1号機の原子炉圧力の低下が速く、規定を守れないと考え、ICの2系統の弁を閉操作して手動停止した。2号機では、外部電源喪失で主蒸気隔離弁が閉まって原子炉圧力が上昇し、圧力容器から圧力抑制プールに蒸気を逃がす主蒸気逃がし安全弁が自動的に開閉を繰り返し、圧力抑制プールの水温が上昇傾向にあった。


2 津波到達後、原災法15条に基づく特定事象発生報告まで

 地震発生後、発電所対策本部は気象庁の津波情報を把握し、吉田所長は6メートルの津波が到達する恐れがあると知った。しかし、複数号機が同時的に全交流電源を喪失するとは想像していなかった。

 11日午後3時27分と35分の2回、津波が到達して13メートルの電源盤の上まで遡上(そじょう)、原子炉建屋など多くの施設が被水。同37分から同42分に6号機の空冷式ディーゼル発電機を除きすべての交流電源を失った。各中央制御室から全交流電源を喪失したとの報告を受け、想像を絶する事態に皆が言葉を失った。吉田所長は、これまで考えられてきたあらゆるシビアアクシデント(過酷事故)をはるかに超える事態が発生し、とっさに何をしていいか思いつかなかった。午後3時42分、原災法10条の特定事象(全交流電源喪失)の発生を通報した。

 1、2号機とも午後3時50分までに原子炉水位や他のパラメーターを監視できなくなった。当直は過酷事故対策用の「事故時運転操作基準」(手順書)を取り出して読んだが、全交流電源が失われる事態を想定していなかった。

 津波到達後、1号機のIC隔離弁は、開閉状態の表示灯が消えて確認できなかった。当直は津波到達前のIC操作を覚えておらず、全電源喪失によって自動で弁が閉まる(フェイルセーフ)機能についても思い至らず、津波到達直後のICの作動状況を把握できなかった。3号機は直流電源盤が被水を免れ、RCICとHPCIが起動可能だった。当直は、これらの設備だけでは冷温停止は困難なため、代替注水までの時間を確保するため、できるだけ長い間作動可能な状態に保つことを考えた。

 吉田所長は1号機のICや2号機のRCICが作動していると期待しつつも、最悪の事態を想定して原災法15条の特定事象(非常用炉心冷却装置注水不能)が発生したと午後4時45分、官庁などに報告した。午後4時45分、1号機の水位計が確認できたと報告を受け、同55分、特定事象発生の報告を解除した。その後再び1号機の水位を確認できなくなり、午後5時12分、特定事象の発生を報告した。

 午後5時15分、発電所対策本部技術班は1号機について燃料頂部に水位が下がる時間を1時間と予測。本店対策本部も午後6時15分には炉心が露出する可能性があると認識していた。この時点でICの冷やす機能が十分でなく、代替注水の実施作業に着手する必要があると容易に認識できたはずだ。


3 原災法第15条に基づく特定事象発生報告後、1号機原子炉建屋爆発まで

 1号機のICは全交流電源が失われ、弁は自動的に閉まる動作によりすべて閉となっていたと推認できる。午後5時19分、当直はICの復水タンクの水量を確認しようとしたが、1号機原子炉建屋内で線量計が最高値の毎時約2・5マイクロシーベルトを振り切ったためあきらめた。津波到達から2時間以上ICの「冷やす」機能はほとんど機能しなかった。しかし、この時点でも、ICが機能を失っている可能性があると認識した人はいなかった。

 当直の誰一人として、地震が発生するまでICを実際に作動させた経験がなかった。11日午後6時18分、当直は中央制御室で、ICの弁が全閉の状態を示すランプが点灯していることに気づいた。午後9時半ごろ、弁を開く操作をして発電所対策本部に報告した。

 同本部も午後9時台までは1号機よりも2号機で炉心溶融に至るのではないかと危機感を持っていた。保安院の保安検査官も12日未明まで免震重要棟2階にいたが、プラントデータなどを携帯電話などでオフサイトセンターに報告するのみで、指導、助言をした形跡はまったく見当たらない。

 問題点は、当直がICを作動させた経験がなく、訓練、教育を受けていなかった。また当直長から代替注水のライン構築作業について報告を受けた発電所対策本部の者は誤解した受け答えに終始し、当直長が何度訂正しても十分理解が得られなかった。最重要情報の一つが当直から発電所対策本部に正確に伝わらず、大きな認識の乖離(かいり)が生じた。

 発電所対策本部、本店対策本部でも誰一人としてICが機能していないという疑問を指摘した者はいなかった。吉田所長は「これまで考えたことのなかった事態に遭遇し、情報に追われ、重要情報を総合的に判断する余裕がなくなっていた」と供述する。結局、今回のような事態を想定し、対処に必要な教育、訓練がされていなかったと言うほかない。

 11日午後5時12分、吉田所長は発電班、復旧班に代替注水を検討するよう指示したものの、各班で役割や責任が不明確で、12日未明まで具体的な検討、準備はされなかった。同午前2時3分、発電所対策本部は消防車のホースを1号機タービン建屋の送水口に接続して注水するしかないと考えた。だが東電社員には消防車を運転操作できる者がいなかった。12日午前中、ようやく、柏崎刈羽原発の消防車などが到着した。

 12日正午、吉田所長は1号機付近の淡水がなくなった場合は海水注入を決断し、午後2時54分、注入を指示。しかし午後3時36分、1号機で水素爆発が発生し、消防ホースは破損して使用不能となった。

 11日夕方以降、1、2号機中央制御室の当直はベント(排気)を実施する可能性もあると考えた。吉田所長は12日午前0時6分ごろ、1号機のベントの準備を進めるよう指示した。本店でも異論は出なかった。午前1時半ごろまでに、清水正孝東電社長の了解を得た。官邸でも菅首相や海江田万里経済産業相、保安院の了解を得て午前3時6分にに海江田経産相と東電がベント実施を発表。だが原子炉建屋は照明がない上、線量が高く、余震も発生し思うように作業を進められなかった。

 午前7時11分、菅首相は班目委員長とともにヘリコプターで原発に行き、免震重要棟2階の会議室で吉田所長と面会。ベントを急ぐよう言われた吉田所長は午前9時ごろをめどに実施したいと答えた。

 1号機のベントに必要な弁を開けるためには高線量の建屋内に入らなければならなかった。午前9時15分、第1班が弁を手動で25%開にして戻った。第2班は線量限度の100ミリシーベルトを超える可能性があったため操作を断念。午前10時以降、中央制御室で弁を開ける操作を3度試みると、原発正門付近の線量が上昇、ベントできた可能性が高いと判断した。しかし、午前11時15分には再び線量が下がり、ベントは十分効いていない可能性があると判断を改めた。担当者にはベントをちゅうちょした事実は認められない。しかし吉田所長は11日夜まで、差し迫ったベントの必要性を感じていなかった。


4 1号機原子炉建屋爆発後、3号機原子炉建屋爆発まで

 3月12日午後7時15分までにERCは東電から1号機への海水注入開始の報告を受け、官邸地下の緊急参集チームにいた保安院職員に電話で伝えた。だが官邸5階の菅首相らには伝わらなかった。

 同日夕方以降、菅首相らは避難区域の拡大に関する議論をしていた。(菅首相からのヒアリングは未了で暫定的な調査結果)菅首相は班目委員長に、海水を入れることで再臨界の可能性があるのではと尋ね、班目委員長は「再臨界の可能性はそれほど考慮に入れる必要がない」と答えたが、菅首相は十分納得しなかった。

 菅首相は原発から半径10キロ区域の避難範囲を拡大し、半径20キロにした。それまでは半径10キロを超える地域は防災訓練も実施しておらず、自治体や地域住民への連絡、避難手段の確保なども全くされていなかった。

 官邸で海水注入について議論になり、武黒フェローが12日午後7時4分過ぎ吉田所長に電話をした。吉田所長は「もう開始している」と回答し、武黒フェローは「今官邸で検討中だから、注入は待ってほしい」と強く要請した。吉田所長は電話後、いつ再開できるか分からないのに海水注入を中断すれば原子炉の状態が悪化の一途をたどるだけと考え、自己の責任で海水注入を継続しようと判断して担当者に小声で「これから海水注入中断を指示するが、絶対に注水をやめるな」などと指示。その後、緊急時対策室全体に響き渡る声で海水注入中断を指示した。1号機に本格的に海水注入が開始されたのは午後8時20分ごろで、それまでは試験注水という整理がされた。

 3号機では12日午前11時36分ごろ、何らかの原因でRCICが停止。午後0時35分ごろ、HPCIが自動起動した。その後原子炉は減圧が顕著となった。HPCIは本来原子炉圧力が高圧状態の時に短時間に大量に注水するシステムだった。そのため当直は通常と異なる運転方法でHPCIの設備が壊れる恐れがあると不安を抱くようになった。13日午前2時42分ごろ、HPCIを手動で停止することにした。当直は発電所対策本部発電班の一部の者に相談した。しかし、それらの者は現場対応に注意を払うあまり、発電班でも共有されず、HPCIが作動しているという認識を持っていた。

 13日未明以降、官邸5階の首相応接室では海江田経産相、平岡英治保安院次長、班目委員長、東電部長らが意見交換していた。このとき、3号機への海水注入の準備をしていると情報が得られ「海水を入れるともう廃炉につながる」「発電所に使える淡水があるなら、それを使えばいいのではないか」などの意見が出た。東電部長は吉田所長に電話し「淡水が残っているなら極力淡水を使った方がいいのではないか。官邸でそのような意見が出ている」と伝えた。吉田所長はこれを重く受け止め、海水注入作業を中断して注水ラインを変更するように指示した。13日午後0時20分ごろ、淡水が枯渇。海水注入が開始されたのは午後1時12分だった。

 3号機のベントでは13日午前8時35分、当直が原子炉建屋に入り弁を手動で15%開。午前9時8分、ベントを実施した。午後2時31分、3号機建屋内で毎時300ミリシーベルトを超す高線量が計測され、吉田所長は3号機でも炉心損傷が相当進み、大量に発生した水蒸気が水素とともに建屋内に漏れ、1号機と同様に水素爆発が発生することを恐れた。ウオータージェットで建屋の壁に穴を開けようと考えたが、困難だった。

 14日午前11時1分、3号機原子炉建屋で水素爆発が発生。15日午前6時から同10分にかけ4号機原子炉建屋も爆発した。


5 3号機原子炉建屋爆発後、2号機圧力抑制プール圧力低下と4号機原子炉建屋爆発まで

 14日午後0時半ごろには2号機の圧力抑制プールの水温、圧力が上昇の一途をたどり、破損が懸念された。官邸5階では細野豪志首相補佐官、班目委員長、東芝の技術者らが2号機の対応について意見交換した。班目委員長は吉田所長にベント前に早期に注水すべきだと意見した。発電所対策本部と本店は、班目委員長の意見に反してベントを急ぐべきだとの意見で一致した。だがベント弁の開操作がうまくいかず、午後4時過ぎに清水社長は吉田所長に対し、班目委員長の意見に従って、注水作業を行うよう指示した。

 発電所対策本部と本店は午後6時22分の時点で2号機の燃料棒が全部露出したとの認識を確認した。午後7時57分にようやく2号機への連続注水が開始。吉田所長はこのままでは炉心溶融が進み、核燃料が溶け落ちて格納容器の壁も溶けて貫通し、放射性物質が外部にあふれ出すいわゆる「チャイナ・シンドローム」のような最悪の事態になりかねないと考えた。さらにそうなった場合1、3号機も作業ができなくなり、同じ事態に陥る。吉田所長は自らの死も覚悟したが、社員などの人命も守らなければならないと考え、必要な人員だけ残して原発敷地外に退避させようと判断した。


6 2号機圧力抑制プール圧力低下と4号機原子炉建屋爆発後(略)


7 原子炉格納容器外の爆発(略)



毎日新聞 2011年12月27日 東京朝刊