神戸市教委は27日、同市中央区江戸町、「旧神戸外国人居留地遺跡」の地層から、江戸時代の南海地震による津波の痕跡を確認した、と発表した。同時代の地層に、海から押し寄せたとみられる砂が堆積していた。過去の南海地震では西日本各地に津波の被害が報告されているが、神戸で津波の痕跡が見つかったのは初めて。
市教委によると、同遺跡では明治時代の建物跡などが発掘されている。2009~10年の調査で掘った長さ約15メートルの地層断面を、増田富士雄・同志社大教授(堆積学)が分析した。
津波の痕跡が見つかったのは、明治時代に整地された地層(地下約1・5メートル)のすぐ下にある江戸時代の地層。約30センチにわたり、泥をふくまないきれいな砂が積もっていた。砂は波によって押し寄せたり、ひいたりする津波特有の配列で積み重なっていたという。その下は川の氾濫によるとみられる泥のまじった砂が堆積していた。
堆積物があったのは標高1・7~2メートルだったため、津波の高さは2・5メートル前後と推定。この地点で波が7、8往復したことが分かったという。
江戸時代には、1605年(慶長)、1707年(宝永)、1854年(安政)の3度、南海地震が起きたが、地層の位置から安政、宝永いずれかの地震によるものとみられる。
江戸時代の文献によると、大阪では宝永、安政ともに地震による大きな被害があったことが分かっており、宝永では「溺死者1万人」との記録もあるという。しかし、神戸での津波記録はこれまでなかった。
市教委文化財課の千種浩学芸員は「同時代の南海地震で、これだけ広範囲に堆積物が見つかった例はなく、今後の地震対策にもいかせるのではないか」と話している。(岸本達也)
【南海地震】東海沖から四国沖の南海トラフ(海溝)沿いで、100~150年周期で発生するプレート型の巨大地震。東海・東南海地震と同時発生した1707年の宝永地震はマグニチュード(M)8・6で国内最大級とされる。直近は1946年の昭和地震。今後30年以内の発生確率は60%で、淡路島南部で最大5メートル以上、神戸市でも同2・5メートルの津波が予測されている。
(2011/01/28 08:45)
江戸時代の南海地震津波跡? 神戸・旧居留地遺跡
2011年1月28日
神戸市教委は27日、神戸市中央区江戸町の旧神戸外国人居留地遺跡で、江戸時代の南海地震の津波の痕跡を示すとみられる砂の堆積(たいせき)層が見つかったと発表した。地質学の専門家は、海岸線から約500メートル離れた地点に約2.5メートルの高さの津波が押し寄せたとみている。
市教委文化財課によると、津波の痕跡とみられる砂の堆積層は、厚さ約30センチ、南北約15メートル、東西約2メートル。現在の地表面から約1.5メートル下で見つかった。
同志社大理工学部環境システム学科の増田富士雄教授(地質学)によると、泥の含有率が少ない砂であることや、砂の大きさが0.5~1ミリと粒ぞろいであること、砂の配列が一定方向と反対方向に折り重なっていることなどから、当時、近くを流れていた生田川のはんらんによる堆積層ではなく、津波の痕跡である可能性が高いという。
津波の痕跡とみられる地層からさらに約1メートル下には1600年ごろの地層があることから、津波は1600年ごろ以降、外国人居留地が設置された明治初期までに発生したものと推定され、大阪湾周辺で大規模な被害をもたらした宝永の南海地震(1707年)か、安政の南海地震(1854年)のいずれかである可能性が高いという。
現場は幕末~明治初期の古地図で海岸線から約500メートル北に位置している。現在の標高で1.7~2メートルの地点に分布していることから、波の高さは2~2.5メートル程度だったと推定した。
市教委文化財課の千種浩・埋蔵文化財調査係長は「どちらの地震であっても、神戸が津波に見舞われたという文献の存在はこれまで知られていない。津波の被害を裏付ける証拠が地下に眠っていたことがわかり、大変貴重な発見だ」と話している。
旧神戸外国人居留地遺跡は約250平方メートル。市危機管理センターの建設に先立ち、2009年12月から約2カ月間、発掘調査をした。現在は建設工事のために掘削し、実物標本のみが残っている。(日比野容子)
南海地震による津波痕跡をはじめて確認
旧神戸外国人居留地遺跡で、江戸時代に標高約2mまで津波があったことが判明した。
記者資料提供(平成23年1月27日)
教育委員会事務局
社会教育部文化財課埋蔵文化財調査係
南海地震による津波痕跡をはじめて確認
旧神戸外国人居留地遺跡で、江戸時代に標高約2mまで津波があったことが判明した。
津波痕跡を発見した遺跡
旧神戸外国人居留地遺跡(中央区江戸町97、98-2)
発見の経緯
平成21年12月から約2ヶ月の間、神戸市危機管理センター建設に先行して発掘調査を実施した。その後引き続いて地質の分析を行った結果、津波による堆積物が存在していたことが明らかになった。
遺跡の概要
この遺跡は、旧神戸外国人居留地の97,98番地に相当している。発掘調査の結果、明治時代後半の煉瓦積みカマドと建物基礎の一部を発見した。
記録から、この場所には、ヘリヤ商会が日本茶を輸出するための再製加工をおこなっていた建物があったことがわかっている。このことから、見つかったカマドは茶再製炉の一部であったと推定している。
津波について
(1)標高約1.7~2.0mに堆積していた砂礫の堆積構造を分析した結果、津波によるものであることが判明した。
(2)その堆積時期は、下層の堆積物中に含まれていた木片の年代測定結果から、17世紀前後から旧居留地建設までの間であることがわかった。
(3)この間に神戸に津波が押し寄せた可能性があるのは、1605年の慶長地震、1707年の宝永地震、1854年の安政南海地震である。いずれも南海トラフ沿いを震源とする巨大地震である。今回確認した津波堆積物は、後二者の地震による可能性がより高い。
(4)津波の痕跡が神戸市内の遺跡の発掘調査で明らかになったのは、今回が初めてである。
『コメント』
同志社大学理工学部教授 増田 富士雄
別紙のとおり
調査の成果
発掘調査によって南海地震による津波が神戸市も波及していたことが、はじめて裏付けられました。これまでに残されていた記録では実証できなかった津波の影響が確認されたことは、今後、同様の地震が発生した場合、同程度の津波の影響を予測することができます。
発掘調査でえられた情報が、災害の歴史を語る上で有効であることが、改めて確認できた意義は大きく、今後もこのようなデータの蓄積が重要であると考えられます。
◆関連資料
旧神戸外国人居留地遺跡で確認された南海地震の津波痕跡について
http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2011/01/img/20110127841001-01.pdf