蘇我馬子邸 宮殿並み? 奈良・島庄遺跡 塀跡の大型柱穴列見つかる
2013年2月9日 夕刊
飛鳥時代の大豪族蘇我馬子(そがのうまこ)(生年不明~六二六年)の邸宅とみられる建物群跡が確認された奈良県明日香村の島庄(しまのしょう)遺跡で、塀跡とみられる大型柱穴列が見つかっていたことが九日、分かった。二〇一一、一二年に村教育委員会が調査していた。
この遺跡で建物群跡のものとみられる七世紀前半の塀跡が見つかったのは初めて。調査した西光慎治主任技師は「柱穴の一辺が一メートル以上あり、宮殿クラスの規模といえる。立派な塀で囲われた邸宅だったのではないか」としており、天皇をしのぐ権勢を誇ったとされる馬子の邸宅規模を探る貴重な手掛かりになりそうだ。
柱穴は八基で、馬子が住んだ正殿とされる大型建物跡の西八十メートルで見つかった。柱を直接地中に埋める掘っ立て柱式で、柱穴は一辺が約一・三メートルの方形。二・一~二・四メートル間隔で並び、直径三十~四十センチの柱が立っていたとみられる。塀全体の長さは不明だが、南北十六メートル分を確認した。
〇四年の調査で見つかった馬子邸とみられる建物跡三棟と平行に並んでおり、一連の施設として造られたらしい。
日本書紀によると馬子邸は飛鳥川の近くにあり、庭には池があったとされる。現場は既に埋め戻されている。
<蘇我馬子> 敏達から推古まで4天皇の大臣を50年以上務め、天皇家との血縁関係を背景に蘇我氏の最盛期を築いた。対立する物部氏を滅ぼし、自ら擁立した崇峻天皇も暗殺、めいの推古天皇を即位させるなど、政界を主導。仏教の受け入れに熱心で日本最初の本格的寺院、飛鳥寺を建立。聖徳太子とともに歴史書の編さんや遣隋使派遣などを進めた。
発掘:蘇我馬子邸の塀跡か
毎日新聞 2013年02月09日 20時15分(最終更新 02月09日 22時08分)
飛鳥時代に権勢を振るった蘇我馬子(?〜626年)の邸宅があったとされる奈良県明日香村の島庄(しまのしょう)遺跡で、7世紀前半の塀跡とみられる大きな柱穴列が見つかった。村教委が9日の発掘調査報告会で明らかにした。同遺跡では馬子邸の可能性がある大型建物跡が確認されており、同時代の塀跡が見つかったのは初めて。村教委は「建物を囲う塀の一部」とみている。
調査は11、12年に実施。村教委によると、柱穴列は7世紀前半の大型建物跡3棟の西80メートルの地点から見つかった。掘っ立て柱式の四角形(一辺約1.3メートル)で、2.1〜2.4メートル間隔で8個並んでいた。塀の長さは約16メートル、柱の直径はそれぞれ30〜40センチあったとみられる。
日本書紀などの記述によると、馬子の邸宅は飛鳥川のそばで、庭園には島のある池があったという。今回見つかった柱穴列は、大型建物跡3棟やその北側で既に見つかっている方形池跡と平行しているため、村教委は同時期に使われていた塀とみている。
塀跡から池端までは約100メートルあり、村教委の西光慎治主任技師は「柱の大きさから宮殿クラスでもおかしくなく、大邸宅だった可能性がある」と話している。現場は既に埋め戻されている。【矢追健介】