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2012/03/08

原子炉建屋に入ると、白いもやのような蒸気が充満していたという。手持ちの線量計は振り切れ、目に飛び込んできた値は、1,000m㏜

「3.11」を超えて 福島第1原発事故の発生時に何が起きていたかを検証しました。

被災地の現状をお伝えする、「3.11」を超えて。
福島第1原発は、津波によって全ての電源が失われ、原子炉の冷却ができずに水素爆発を引き起こしました。

FNNが独自に入手した関係者の証言や、内部資料をもとに、あの時、何が起きていたのか検証しました。


2011年3月12日、最初に爆発の危険性が高まった福島第1原発1号機で、午前9時を目標に、ベントの実施が指示された(民間の事故調査委員会報告書より)。
気体を外部に放出するベントは、電気で動く仕組みになっているが、それができない場合は、ハンドルで行われる。

世界でも過去に例がない「手動ベント」作業。

あの日、1号機建屋では、格納容器にたまった気体を外に放出するため、2カ所のベント弁を開く必要があった。

FNNは、その作業を任された1人を取材した。

ベント作業員の男性は「中央操作室は電源がなく、車から外したバッテリーの明かりが頼りでした」と証言した。

志願する若手もいたが、家族構成や年齢を考慮して、当直長がベント作業に向かう数人を選んだ。

ベント作業員の男性は「逃げた者はいない。みんな必死に戦いました」と証言した。

原子炉建屋に入ると、白いもやのような蒸気が充満していたという。

手持ちの線量計は振り切れ、目に飛び込んできた値は、1,000ミリシーベルト(mSv) = 1シーベルト(Sv)だった。

作業員は、ベント弁までたどりつけず、わずか10分で引き返すことになったという。

ベント作業員の男性は「悔しかった。最終的に、ほかの班が違う方法でやりました」と証言した。

2つのベント弁は、作業開始から5時間以上を経て、開放することができた(民間の事故調査委員会報告書より)。

福島第1原発から、南西およそ5kmの場所にある、大熊町のオフサイトセンター。

今回の事故では、重要な情報が共有できずに、現場が危険にさらされた。

オフサイトセンターが計算していた炉心の損傷率の内部資料によると、3月14日午前で1号機が50%、3号機が30%とわかっていたが、この段階で公表されることはなかった。

当時、福島第1原発で作業をしていた陸上自衛隊の岩熊真司隊長は、3号機の爆発で、車ごと飛ばされた。

岩熊隊長は「損傷率というのが、例えば水素爆発の可能性が上がってるという情報にまで落としていただいて、教えていただければ、やり方が、もしかしたら違っていたかもしれません」と語った。

さらに、別の内部資料では、東日本大震災の翌朝に、各地で高い放射線量が確認されていた。

福島第1原発から、およそ7kmの北西方向で毎時15マイクロシーベルト(μSv)、北に6km付近の沿岸部で14マイクロシーベルトが記録された。

この情報は、首相官邸にも伝わっていたが、住民の避難には生かされなかった。

大熊町の渡辺利綱町長は「われわれが一番求めたものは、正確な情報を迅速に伝えてくださいと。やっぱり、それが欠けていたのかなというような思いが強かった。こういうのが事実とすれば、なぜしっかりと地元に伝えなかったか。そういう憤りはありますね」と語った。

海江田 万里経産相(当時)は「準備ができていなかったということについては、これは天災ではなしに、人間の当然やらなきゃいけないことを、やっていなかったということになると思います」と述べた。

(03/08 12:51 福島テレビ)