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2011/02/06

元連合赤軍幹部の永田洋子死刑囚が5日午後10時6分、東京・小菅の東京拘置所で病気のため死去

元連合赤軍幹部・永田洋子死刑囚が病死 東京拘置所
2011年2月6日1時54分



 1971~72年に起きた「連合赤軍事件」で、新左翼運動の仲間を殺害した罪などに問われ、93年に死刑が確定した元連合赤軍幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚が5日午後10時6分、東京・小菅の東京拘置所で病気のため死去した。65歳だった。法務検察関係者によると、死因は脳腫瘍(しゅよう)による多臓器不全とみられる。

 永田死刑囚は東京都出身。連合赤軍の実質的なリーダーの1人だった。内部抗争の末、71年8月に仲間2人を殺害した「印旛沼殺人事件」、71年12月から72年2月にかけて「総括」や「処刑」と称して群馬県の榛名山などで12人を死なせた「山岳ベース事件」などにかかわり、72年2月に逮捕された。同月下旬に警察官ら3人が殺害された「あさま山荘事件」には関与していない。

 同じく連合赤軍幹部だった坂口弘死刑囚(64)らとともに裁判を受け、82年に東京地裁で死刑判決。86年に東京高裁が控訴を棄却し、93年に最高裁が上告を棄却して死刑が確定した。

 その後、両死刑囚の弁護人は刑事訴訟法の規定に従い、共犯者とされて一審途中に超法規的措置で国外に脱出したままになっている坂東国男被告(64)の判決が確定するまで、死刑を執行しないよう法務省に申し入れていた。また、永田死刑囚は01年に再審を請求したが、東京地裁は06年に棄却し、東京高裁に即時抗告していた。

 公判中には自らの生い立ちやリンチ殺人に至る過程をつづった「十六の墓標」などの著作を発表。一方、84年には脳腫瘍の手術を受け、その後も病院への移送などを求め、国などを相手取った訴訟を起こしたが、認められなかった。その後も頭痛や目の痛みを訴え、寝たきり状態が続いていたという。