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2009/04/09

南蛮貿易と日本人奴隷

日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!

「南米日本人発祥の地」は一八〇三年にロシア船に乗ってフロリアノーポリス港に到着した若宮丸の四人――とのイメージが強いが、史実をたどると、どうやらそうではないようだ。それよりも遙か以前、今から四百年以上も前に南米の地を踏んだ日本人の記録が残されている。日本とブラジルとの歴史的関わりを考える上で、ポルトガル(中世「南蛮」と称された)は欠かせない国だ。この三国関係を軸に、改めて日伯の歴史を俯瞰し、カトリック布教と大航海時代という背景の中で、日本人が四百年前にブラジルに来ていた可能性を検証してみた。将来を見通すには、その分、過去を知る必要がある。百年の歴史から日系社会の将来を考えるより、より長い歴史の中から日伯関係を俯瞰することで、日系社会の二百年後、三百年後を構想するアイデアの一助にならないだろうか。(深沢正雪記者)



連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人

連載(2)=「小家畜か駄獣のように」=手足に鎖、舟底につながれ

連載(3)=ペルーに20人の記録も=実は南米で一般的だった?

連載(4)=中国、韓国人奴隷も?=イエズス会と東方貿易

連載(5)=売り渡したのも日本人=晴天の霹靂、驚愕する秀吉

連載(6)=50万人説は本当か?=乱暴な計算と怪しい根拠

連載(7)=キリシタン浪人との説も=下克上の世を疎み出国か

連載(8)=ポルトガルからオランダへ=政教分離進む新教に軍配

連載(9)=民族絶滅の亡霊が徘徊=今も残る慶長使節の末裔

連載(10・終)=ポルトガルに〃日系人〃?!=奴隷解放で再び日本人登場


http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa3.html






ニッケイ新聞 2009年4月9日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人

 「南米日本人発祥の地」は一八〇三年にロシア船に乗ってフロリアノーポリス港に到着した若宮丸の四人――とのイメージが強いが、史実をたどると、どうやらそうではないようだ。それよりも遙か以前、今から四百年以上も前に南米の地を踏んだ日本人の記録が残されている。日本とブラジルとの歴史的関わりを考える上で、ポルトガル(中世「南蛮」と称された)は欠かせない国だ。この三国関係を軸に、改めて日伯の歴史を俯瞰し、カトリック布教と大航海時代という背景の中で、日本人が四百年前にブラジルに来ていた可能性を検証してみた。将来を見通すには、その分、過去を知る必要がある。百年の歴史から日系社会の将来を考えるより、より長い歴史の中から日伯関係を俯瞰することで、日系社会の二百年後、三百年後を構想するアイデアの一助にならないだろうか。(深沢正雪記者)

 博覧強記でしられた故中隅哲郎さんの『ブラジル学入門』(無明舎、一九九四年、以下『入門』と略)を読み直して、「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」(百六十四頁)との記述に目が引かれた。
 驚くことに、「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)という具体的な内容も記されている。
 さっそく『アルゼンチン日本人移民史』(第一巻戦前編、在亜日系団体連合会、〇二年)を調べてみると、確かにある。
 同国の古都コルドバ市の歴史古文書館で発見された最初の書類では、一五九六年七月六日、日本人青年が奴隷として、奴隷商人ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアからミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラスという神父に八百ペソで売られたことになっている。
 その日本人青年の属性として「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を八百ペソで売る」(同移民史十八頁)とある。残念ながら、日本名は記されていない。
 さらに、『日本移民発祥の地コルドバ』(副題「アルゼンチン・コルドバ州日本人百十年史」、大城徹三、一九九七年、以下『コルドバ』と略)によれば、日本人青年は一五九七年三月四日付けで、「私は奴隷として売買される謂(い)われはない。従って自由を要求するものである」と起訴したとある。
 奴隷として売られてから二年後、一五九八年十一月三日に裁判に勝訴し、無事、自由の身になった。裁判所は、代金の八百ペソを奴隷商人から神父が取りもどす権限を与えている。
 「この日本青年は心身共に強健で才能に富んだ傑人と思われ、それなりに他の奴隷に較べて三、四倍の高値で買い取られている」(『コルドバ』十六頁)と考察する。奴隷として売られた人間が、「奴隷ではない」と裁判を起こすこと自体、当時は珍しいだろう。
 これが亜国初の日本人公式記録であり、それゆえコルドバが「南米日本人発祥の地」だという。
 四百十三年前の事実が発掘された発端は、今から四十年ほど前に、日系二世も含めた大学生の研究グループが、同古文書館から奴隷売買証書を発見したことにある。これが後に、コルドバ大学から『一五八八年から一六一〇年代迄のコルドバに於ける奴隷売買の状態』(カルロス・アサドゥリアン著、一九六五年)として出版された。
 さらに、八二年に大城氏の依頼によりコルドバ国立大学の図書館から裁判書類が発見され、当時の日系社会で大きな話題となったという。
 織田信長や豊臣秀吉が天下人になっていた安土桃山時代に、いったい誰がアルゼンチンまで日本人を連れてきたのか。
 これは南米の日本人移民前史における最大の謎だ。今ですら、南米までくる日本人は少ない。まして当時は、どのような経緯で渡ってきたのだろうか。(つづく)

写真=『日本移民発祥の地コルドバ』に掲載された裁判書類

ニッケイ新聞 2009年4月10日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(2)=「小家畜か駄獣のように」=手足に鎖、舟底につながれ

 一五九六年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年に関し、大城徹三氏は著書『コルドバ』で、かなり踏みこんだ分析をしている。イビウナ市在住の香山榮一さんから送ってもらい、ようやく読むことができた。
 この本には「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入ってきたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になかった」(十五頁)とある。
 これは実に刺激的な説だ。なぜなら、ポルトガル商人の手によってお隣まで来ていたなら、もっと近い、南米唯一のポルトガル植民地だった伯国にも日本人奴隷が売られてきていても何ら不思議はない。
 むしろブラジルにこそ多く来ていた、と考える方が自然だろう。
 日本人奴隷に関し、前述の中隅さんは『ブラジル学入門』の中で、「日本側の記録がないのでわからぬが、ポルトガルにはいろいろな記録が断片的に残されている」(百六十四頁)とし、外交官でラテン・アメリカ協会理事長だった井沢実さんの『大航海夜話』(岩波書店、七七年)から次の引用を紹介している。
 「インドのノーバ・ゴア発行の『東洋ポルトガル古記録』の中に日本人奴隷関係で、まだ訳されていない重要文書が含まれている。ゴアにはポルトガル人の数より日本人奴隷の数の方がより多いなどということはショッキングである」
 中隅さんは書き進め、「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている」(前同)と記す。
 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、一九九五年、百五十八~百六十頁)には、次のような記述もある。
 「一五八二年(天正十年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。『我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった』『全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』といったやりとりが、使節団の会話録に残されている」
 少年使節団(一五八二―一五九〇年)がイエズス会員に伴われて欧州に出発したのは、「本能寺の変」と同じ年だ。
 日本にいたポルトガル人宣教師は、同胞商人による日本人奴隷売買をひどく嫌がり、本国に取締を要請し、一五七〇年九月二十日にドン・セバスチォン王は禁止令を出したが効き目はなかった。
 「この現象を嘆いて、ポルトガルの碩学、アントニオ・ヴェイラはこう言っている。『法律というものはあっても、違反者は絶えないものである。例えば日本人を奴隷にすることを禁止する法律が制定されているにも拘わらず、ポルトガル国内には多数の日本人奴隷の存在する事実によって、これを証することが出来る』」(『入門』百六十五頁)と中隅さんは例証する。
 禁止令の二十六年後にアルゼンチンで奴隷売買されたフランシスコ・ハポンの存在がまさにそれを実証している。現在の伯国に通じる法律軽視の気風は、すでにこの当時の宗主国にはあった。
 「秀吉の側近だった大村由己(ゆうこ)は『日本人男女数百名の多数を黒船に買取り、手足に鎖をつけて舟底に追い込み、地獄の責苦をあたえ………』と憤慨して書いているから、一船当たり、二百名位は積んだらしい」(前同)と記す。
 まるでサルバドールの奴隷市場で売り買いされた黒人と寸分変わらない様子で、日本人も扱われた歴史がある。このこと自体、一般にはあまり知られていない。(つづく、深沢正雪記者)

ニッケイ新聞 2009年4月14日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(3)=ペルーに20人の記録も=実は南米で一般的だった?

 この頃の南米における日本人の記録は、驚くべき事に亜国の青年一人だけではない。ペルーに二十人もが住んでいた記録があるという。
 在亜日系団体連合会(FANA)のサイト(http://fananikkei.exblog.jp/6461148/)の『同日本人移民史』要約には、「当時、アルゼンチン領土まで含むペルー副王領において、フランシスコ・ハポンだけでなく、十七世紀初頭、二十人ほどの〃日本人種土人〃が新世界に連れて来られ、ペルーのリマに〃奴隷〃として住んでいた」という記述もある。
 一六一四年に行われたリマ市人口調査の報告に二十人の日本人の居住記録があるのだという。
 このことは、アルゼンチンの青年のケースが例外的な存在ではなく、むしろ当時、あちこちにいたことを示唆するものと言える。
 スペイン人が植民地を作った場所では、日本人奴隷は一般的に使われていた可能性すらある。
 一四九四年にローマ法王の裁定により、ポルトガルとスペインはトリデシリャス条約を結び、カーボ・ヴェルデ群島の西方二千二百二十キロ地点から東をポルトガル領にし、西側をスペインと定めた。そのためスペインはパナマ両岸に港を作り、中米から太平洋岸を南下した。
 南米では、スペインの遠征軍が一五三三年にペルーのインカ帝国を蹂躙し、植民地政策をとって南下を始めていた。一五七二年、最後のインカ帝国皇帝トゥパク・アマルーが処刑され、栄華を誇った文明は根こそぎ破壊された。
 スペイン人はさらに南下して現在のボリビア、チリ、アルゼンチンの地域を次々に征服した。その流れの中で、アンデス山脈を越えた彼らは、コルドバを一五七三年に拓いた。フランシコス・ハポンが奴隷として売られた一五九六年の、わずか二十三年前だ。
 そんな開拓地にまで日本人が連れてこられていたということは、一五四三年に開かれた副王領(スペイン王国の代理行政機関)であるリマに、一六一四年当時、二十人いたことは何の不思議もない。
 両国はライバルとはいえ、隣国であり、商業的つながりは強い。とくに南米は両国が独占していたから奴隷の売買も珍しくなかったに違いない。
 亜国の日本人青年がポルトガル商人の手によって連れてこられたなら、同じようにブラジルに来ていても何の不思議もない。むしろ、ポルトガルの植民地ブラジルにより多くいたと考える方が自然だろう。
 ポ語版Wikipediaの「Escravidao」項によれば、一六世紀前半から北東部のサトウキビ生産のために、アフリカから黒人奴隷が連れてこられた。主な受け入れ港はリオ、バイーア、レシフェ、サンルイスだった。中でもバイーアは奴隷市場の中心であった。
 その地域の古文書館のような場所を探せば、もしかすれば日本人奴隷の存在を示すような文書が見つかるかも知れない。
 ただし、デオドロ臨時政府のルイ・バルボーザ蔵相が共和制宣言の翌年、一八九〇年十二月四日付けの法令で、一切の奴隷記録を義務的に集めて消却したため、実態が把握できない。
 『ブラジル史』(アンドウ・ゼンパチ著、一九八三年、岩波書店)は「五百万を超えていない」という専門家の調査結果を示した上で、「黒人奴隷のブラジルへの輸入数がこのように不確実であるのは、(中略)奴隷がブラジル史に『黒い汚点』をつけたものであるという理由で、奴隷に関する一切の公文書を焼き捨てさせたためである」(五十四頁)と説明する。
 当時はイエズス会の神父たちも奴隷を買い取り(アルゼンチンの日本人も奴隷として買ったのは神父だった)、自分たちが経営する農場や牧場の仕事に使っていた。前述の地域で一五〇〇年代から続く古い教会があれば、そこにも何かの史料があるかもしれない。
 もしかしたら、一五五四年にイエズス会がサンパウロに上陸し、パチオ・ド・コレジオを作った時、実は日本人奴隷がいたかもしれない――などと想像するのも面白いが、研究者に尋ねても、残念なことに、今のところなんの確証もないようだ。ポルトガルのリスボンなどの古文書館にもなにかあるかもしれない。研究者諸氏の奮闘に期待したいところだ。(つづく、深沢正雪記者)

ニッケイ新聞 2009年4月15日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(4)=中国、韓国人奴隷も?=イエズス会と東方貿易

 十六世紀当時、世界地図をポルトガル中心に見た時、日本とブラジルには奇妙な類似点がある。両国は世界の両端だった。世界の西端がブラジル、東端が日本だった。
 堕落したカトリックを救済・再建する目的で一五三四年に設立されたイエズス会は、世界の異端者と戦うための軍隊型組織を持つ布教の〃先兵〃として、ポルトガルの支援を受けて常に最果ての地に向かった。その目標の東端が日本であり、西端がブラジルだった。
 一五四九年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着したのと同じ年に、ブラジルには総督府制がしかれ、初代総督トメ・デ・ソウザが赴任しているが、初代教区長として同行したのがイエズス会のマノエル・ダ・ノブレガだ。
 今では世界最大のカトリック人口を誇るブラジルと、人口の一%未満しかキリスト教徒のいない日本は、布教開始は同期生だった。
 中隅さんは『入門』で「日本とブラジルは、カトリック布教ということでは、同時に出発したということになる。とはいえ、イエズス会の布教にかける情熱、使命感ということでは、圧倒的に日本に比重がかかっていた。大航海時代の海外進出は、貿易と布教がセットになっているのだが、貿易でも布教でも、未開のブラジルと日本では比較にならなかった」(百六十六頁)と書く。
 大航海時代に「無敵艦隊」を誇り、世界を制覇したスペインと、最大のライバルだったカトリック兄弟国ポルトガル。競い合って世界の果てであるアジア、アフリカ、南米への探検隊や宣教師を派遣した時代だった。
 十四世紀半ばのペスト大流行で欧州人口の三分の一が亡くなり、英仏は百年戦争(一三三七~一四五一年)で疲弊しきっていたのを尻目に、ポルトガルはインド航路発見により、アジアの香料貿易を独占した。
 スペイン王室の支援でコロンブスが北米大陸に到来したのは一四九二年。一五〇〇年にはポルトガル人貴族のペドロ・アルバレス・カブラルが、インドに行く途中で伯国を見つけたが、あくまで視線は利益の多い東方貿易に向いていた。
 ポルトガルは一五〇三年にインド東岸カルカッタを占領、一五一〇年にゴアを、一五一一年マラッカを支配下においた。これら拠点から、香料、絹、茶、象牙、宝石などの莫大な富が本国王室にもたらされた。
 一五一七年には広東まで進出し、シナ貿易を始めた。二世ジャーナリストの先駆者、山城ジョゼーは『Choque luso no Japao dos seculos XVI e XVII』(十六~十七世紀の日本に於けるポルトガルの影響、一九八九年)でも「日本人奴隷」という一項を設け、かなり詳述をしている。
 それによれば一五二〇年ごろに最初にポルトガル人によって売買されたアジア人は「無数の中国人奴隷だった」(百一頁)という。
 一五四三年に商人フェルナン・メンデス・ピントが種子島に火縄銃(鉄砲)を伝えた。日本にとっては、西洋社会との突然の初接触だった。
 ポルトガル人からするとブラジルは偶然発見された場所だが、日本は何十年がかりの大冒険の果てに、ようやく辿りついた最終目的地だった。
 一五四九年八月にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが訪日し、南蛮貿易が始まった。このすぐ後から、日本人奴隷も運びだされるようになったようだ。
 アンドウの『ブラジル史』には、ポルトガルの歴史家ルシオ・デ・アゼヴェード著『Epoca de Portugal Economico』からの引用があり、「インド貿易の全盛期には、ブラジルのインディオをはじめインド人・シナ人・ジャワ人、さらに日本人までも奴隷として輸入していた」(四十九頁)とある。
 十六世紀末には、日本も海外拡張を目指していた。豊臣秀吉は明の征服を目論んで朝鮮出兵(一五九二、一五九八年)をした。この時、日本に連れてこられた朝鮮人が奴隷としてポルトガル商人に売られていったとの記述もある。
 つまり日本人同様、アジア各地の人々が南米にまで来ていてもおかしくない。(つづく、深沢正雪記者)

写真=ブラジルの古地図

ニッケイ新聞 2009年4月16日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(5)=売り渡したのも日本人=晴天の霹靂、驚愕する秀吉

 戦国大名・織田信長はイタリア人のイエズス会宣教師からアフリカ系奴隷を献上され、弥助(ヤスケ)と名付けて武士の身分を与え、家来にしたとの記録がある。フリー百科事典『ウィキペディア』によれば、現在のモザンビーク周辺出身の黒人だったようだ。以下、少々長いが転載する。
 「元々は宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。天正九年(一五八一年)、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れられていたのが信長の目にとまった。信長は最初、肌の黒さが信じられず彼が身体に何か塗っているのかと思い、二月の寒空の下でたらいに入れて家来に体を念入りに洗わせたが肌が黒いままだった。肌の色の黒い人種がいることを理解した信長は彼に興味を持ちヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。信長が彼を『ヤスケ』と名づけ武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように取り計らってくれたことに大いに感謝し、忠実に仕えたと言われる」
 この一事をみても、洋の東西をつなぐ奴隷搬送ルートが確立されていたことは間違いない。
 織田信長にしても、その後継者である豊臣秀吉にしても、当初はキリスト教の庇護者であった。特に秀吉は一五九二年に朱印船貿易を始め、持ち込まれる希少品の数々に魅了されていた。
 というのも、信長は仏教に対して不信感が強かった。反信長の急先鋒であった本願寺が、日本全国の一向一揆を動員して徹底的に抗戦し、苦しめたからだ。その力を削ごうと、異教の布教を許したと考えられている。
 しかし、秀吉はキリスト教徒による仏教徒や神道徒迫害が増えたことを憂慮し、さらに一五八七年の九州平定を経て、日本人奴隷のありさまを見るにいたって、考え方を一変させる。
 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、一九九五年、百五十八~百六十頁)には、次のような記述もある。
 「南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。(中略)『バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様』といった記述に、日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる」
 誰が売ったかといえば、それもまた日本人だった。『ブラジル史』でアンドウは「ポルトガルで奴隷として売られた日本人は、九州地方のキリシタン大名によって売られたものである」(六十三頁)と書く。
 アフリカで黒人をポルトガル人に売り渡したのは、黒人自身であったが、日本においても同様のことが起きていたようだ。(つづく、深沢正雪記者)

写真=織田信長

ニッケイ新聞 2009年4月17日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(6)=50万人説は本当か?=乱暴な計算と怪しい根拠

 日本人奴隷に関して注意が必要なのは、その人数に諸説があることだ。
 インターネット(以下、ネットと略)上であちこちに「日本人奴隷五十万人説」がまことしやかに書かれている。
 その説の唯一の根拠となるのは、鬼塚英昭著『天皇のロザリオ』(成甲書房、二〇〇六年)だ。一五八二年にローマに向け出発した天正遣欧少年使節団の報告からの引用として「火薬一樽と引きかえに五十人の娘が売られていった」などの扇情的記述と共に「五十万人」と書かれており、その部分だけがネットで幅広く流布されている。
 と同時に「その記述にはまったく根拠がない」「原典にあたったら、日本人奴隷が酷い状況に置かれていて驚いたとは書いてあっても、一樽五十人うんぬんはなかった」との反論が方々のサイトに掲載されている。
 ちなみに、鬼塚氏は大分県別府市在住で本職は竹工芸家。同市の事情に詳しい「今日新聞」サイト(//today.blogcoara.jp/beppu/2006/07/post_b2f5.html)によれば〇四年に自費出版した原著が、「自費出版後に太田竜氏が高く評価したのがきっかけでインターネットで話題となり、ことし(〇六年)一月末に五百部が完売」し、それに大幅加筆したものを成甲書房が出版したという。
 成甲書房は「異色ノンフィクション」をウリにする出版社で、鬼塚氏の原著を高く評価した太田氏自身が『地球の支配者は爬虫類人的異星人である』という奇妙なタイトルの本を出版している。そのような筋から〃高く〃評価されて出版されたこと自体、ある種の傾向を示している。
 「担々麺亭日乗」サイトの『「天皇のロザリオ」鬼塚英昭著を読みながら』(//d.hatena.ne.jp/jimrogers/20070405)という頁には、「鬼塚本人と良く話す者」という人物の書き込みがあり、次の計算が披露されている。
 「よく問題となる、本作の五十万人の数の件は、簡単に説明すると、概数、五十万人/期間/キリスタン大名数=年間の奴隷数となりますので、年間に一から二万平均で、月千人から千五百人前後で、一大名月間百人前後(私の推計)」
 とすれば、「十人のキリシタン大名が毎月百人ずつ日本人を奴隷として四十一年間売り続けると五十万人」という単純計算による乱暴な数字でしかない。
 しかも同書には、さも遣欧少年使節団の報告に「五十万人」の数字があるかのように書いているが、ネット上の数々の指摘によれば原著にはその部分がないという。どうも怪しい。
 ネット上では「日本にとって都合が悪い歴史なので、改訂版を出す時にわざと消された」などと、さも鬼塚氏の方が正しいと弁護する記述もあるが、通常の思考法からすれば、原著にないことが「引用」する時に書き加えられた可能性の方を疑うだろう。
 人数に関し、中隅さんは『入門』の中で、南蛮船一隻あたり二百人くらい積んだらしいと推測し、「南蛮船の来航は季節風の関係で、一年に一度しか来れない。南蛮船は五十年間に約百隻ぐらい入ったと推定されている。全部が全部、奴隷を積んでいったわけでもあるまいが、その外にシナのジャンクも入港して奴隷を積んでいるから、やはり二万人ぐらい出たと考えてよさそうだ」と計算した。
 日本人奴隷がいたことは間違いないが、誰にも正確な数字は分からない。少なくとも、南蛮船の物理的限界からして「五十万人」はありえない。となれば「数千人から数万人」という曖昧な数しか出せない。
 四百年以上前に異国に奴隷として売られ、働かされた日本人たちの思いはどんなものだったか。きっと「いつか日本に帰りたい」という強い望郷の念に駆られ、自分がどこにいるかすらも分からず、記録にも残されずに歴史から消えていったに違いない。(つづく、深沢正雪記者)

写真=奴隷船の内部図解

ニッケイ新聞 2009年4月18日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(7)=キリシタン浪人との説も=下克上の世を疎み出国か

 一五八七年、豊臣秀吉は九州征伐の途上、宣教師やキリシタン大名によってたくさんの神社仏閣が焼かれて仏教徒が迫害を受けており、日本人が奴隷となって海外に売られているとの報告を聞いて激怒した。
 そこで秀吉は同年六月にキリスト教宣教師追放令を発布し、その一条にポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた条項を入れたが、奴隷貿易を阻止することはできなかった。
 というのもその時点では、厳格に守らせようとしたわけではなかった。
 南蛮貿易の利益は棄てがたいものであったし、へたに民衆に棄教を強要すると平定したばかりの九州で混乱が生じ、反乱につながる恐れがあると判断されたからだ。
 秀吉とキリスト教徒の関係を決定づけたのは、一五九六年のサンフェリペ号事件だ。スペイン人航海士が「キリスト教布教はスペインにとって領土拡張の手段である」と発言、日本人奴隷売買と同国人宣教師の関係が疑われ、秀吉は京都で活動していたフランシスコ会宣教師らを捕まえ、司祭・信徒合わせて二十六人を長崎で処刑した。
 この背景には、一五八〇年にポルトガルがスペインに併合され、同じ国王を抱くようになった事情がある。ポルトガル独自の行政、宗教、司法などの制度は続けられたが、以後六十年間、外交的には一国として扱われた。つまり、日本側にすれば、合併によりスペイン人の国内での活動も認めざるを得なくなった。
 以前からの日本事情をよく知るイエズス会は、秀吉の禁令後、ひっそり布教するようになった。だが、スペインが支援するフランシスコ会は状況認識が甘く、なかば公然と布教をしていたため目をつけられた。
 キリスト教が広まった背景には、当時の社会格差、百年以上の戦乱による人心の荒廃があり、既成仏教にはない新しいものに救いを求める心理が働いたようだ。ガラス、鉄砲、ワイン、メガネ、印刷術など目新しい最新技術と共にもたらされたその考え方は、当時の民衆にとって、体制護持派となっていた仏教が失った魅力があった。
 秀吉が宣教師追放令を出したのは、アルゼンチンで日本人が奴隷として売られた翌年だ。そんな時代背景が、彼をして日本を出させる理由になったのかもしれない。名前のフランシスコ・ハポンにしても、イエズス会のザビエルにちなんでいたのかもしれない。
 いずれにせよ、なにかの理想を西洋社会に夢見て、単身南米まで渡ったクリスチャンだった可能性がある。自由渡航者として渡ったのに、途中でポルトガル人商人に騙され奴隷として売られたが、裁判で自由を勝ち取ったと推測できる。
 前出の『コルドバ』には、次の分析もある。
 「キリスト教の取締りが厳しくなると、信者の中には自発的に、あるいは強制的に朱印船に便乗して海外に渡る者が多くいた。また一方、戦国争覇で各地に戦乱が繰り返され、大名の栄枯盛衰も激しく、敗亡の大名の家来の中には国内で身の振りどころがなく、海外に飛び出す者も出て、この浪人問題は当時の日本の重大な社会問題となり、多くの浪人が海外に移住を求めるようになった。つまりキリスト教に対する弾圧と戦乱の浪人が日本移民の始めといわれる」(十五頁)と日本人町の形成や、亜国の件の背景を説明する。
 「さらに、当時日本の置かれていた社会情勢から推してこの青年の出国を考えた場合、熱烈なカトリック信者であったか、もしくは戦乱の浪人『侍』であったともいえる。いずれにせよ同民族間で限りない闘争で明け暮れる日本に見切りをつけ、たまたまポルトガル人に嘆願し、新天地を求める好奇心と活路を求める意で大きな野望を抱き、ポルトガル船に乗り込み、大陸アルゼンチンに来た『最初の南米日本人移民』だった、と史実に基づいて断定してよかろう」(十五頁)
 下克上に明け暮れ、百年以上の長い戦乱の続いた戦国時代を嫌い、日本を飛び出したキリシタン浪人だった可能性を指摘している。
 新天地に大志をもって乗り込んだサムライであれば、まさに移民の先達に相応しい。(つづく、深沢正雪記者)

写真=天草四郎の陣中旗には、ポ語で「いとも尊き聖体の秘蹟ほめ尊まれ給え」と書かれていた

ニッケイ新聞 2009年4月21日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(8)=ポルトガルからオランダへ=政教分離進む新教に軍配

 大航海時代はスペインとポルトガルが競って世界中に飛び出した。カトリック布教と貿易が対になって進出し、最後に植民地化する流れだった。欧州大陸で新教が勢力を増しているため、旧教側としては新布教地を開拓せざるをえなかった背景があった。
 だが百年も持たずに、新興勢力などに追い越された。一五八八年に「スペインの無敵艦隊」がアルマダの海戦で、英国に敗北したことにより、欧州の覇権が旧教国(スペイン・ポルトガル)から、新教国(イギリス・オランダ)へ移ろうとしていた。
 日本も最初はポルトガルと取引したが、カトリック勢力と一体化していたやり方がバテレン追放令を発令した秀吉や続く江戸幕府の不審を買い、宗教と政経の切り離しが進んでいたオランダに取って代わられた。
 一六三八年に日本国内では、島原天草の乱が起きた。三万人もの民衆が蜂起し、大きな衝撃を与えた。幕府は徹底鎮圧し、翌一六三九年にポルトガル船の追放を行い、鎖国(オランダ以外)を完成させた。
 日本との交渉権を失ったポルトガルは一六四〇年、スペインからの再独立を果たし、ブラガンサ王朝が成立、ようやく最大の植民地ブラジルに本格的に目を向けるようになった。
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 カトリック守護を掲げていたポルトガル王室はドン・ジョアン二世(一四五五―一四九五年)の時代に、国内のユダヤ人に改宗を迫り、その大部分は資本をもってオランダなどに逃げた。のちにこの勢力が新教国の海外発展に協力、隆盛につながった。
 この時に改宗したふりをしてひっそりと信仰を貫き、クリスタン・ノーボとよばれて差別され続けた人もいた。さらに、伯国のペルナンブッコに移住して砂糖農園主になったものもいた。
 一六三〇年から五四年までペルナンブッコは、オランダの東インド会社が侵略統治していた。ポルトガル領では禁止されていたユダヤ教もオランダ領では許された。そこに一六三七年には新大陸最初のシナゴーグ(Kahal Tzur Israel)まで建設された。ユダヤ系コミュニティにとっては新大陸の宗教的オアシスとなっていた。
 ところが、オランダなどの新教国に東方貿易のうまみを持って良かれつつあったポルトガルは、伯国統治に本気を出すようになり、一六五四年にレシフェを再占拠しオランダ人を追い出した。
 この時に、ポルトガル統治を嫌ったユダヤ人百五十家族が、十六隻の船に分乗して逃げ出した。うち六家族二十三人が同年九月七日、北米のオランダ領だったマンハッタン島のニュー・アムステルダムに上陸した。
 このポルトガル系ユダヤ人たちが、北米のユダヤ系コミュニティの基礎を作ったといわれる。ここは、一六六四年に英国領となりニューヨークと名前を変え、世界の中心たる存在感を見せるようになったことはいうまでもない。
 例えば、一七三〇年にリスボンからこのコミュニティを頼って移住したポルトガル系ユダヤ人のメンデス・セイシャス家の子孫ベンジャミンはニューヨーク株式市場の、モイゼスはのちのアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)の創立者の一人だ。
 二〇〇四年に北米上陸三百五十周年を祝う展示会が、米国のユダヤ系コミュニティによって行われ、当時のことを書き記した文書がブラジルでも注目された。
 前述の通り、ブラジル側は共和制宣言の後に消却してしまったため、奴隷の記録が残っていないが、この北米に転住したユダヤ人たちは数々の書類を残しており、日本人奴隷が当時、北東伯の砂糖農園で働いていたのであれば、それに関する記述もあるかもしれない。(つづく、深沢正雪記者)

写真=ニューアムステルダムの様子
ニッケイ新聞 2009年4月23日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(9)=民族絶滅の亡霊が徘徊=今も残る慶長使節の末裔

 日系社会には〃民族絶滅〃の悪夢を背負った亡霊が徘徊している――。
 山田長政、タイ日本人町の長になった人物だ。四百年後の現在、日本人町の痕跡や子孫はまったく残っていない。時の流れの中で跡形もなく消え去ってしまった。
 彼が朱印船にのってシャムに渡ったのは一六一一年。当時は東南アジアのあちこちに日本人町があった。
 山田長政は傭兵隊に加わり功績をあげ、七千人もいたアユタヤの日本人町の長に任命された。その後、王位継承の争いに巻き込まれ、一六三〇年に殺された。反乱を恐れたアラビア人、タイ族などにより日本人町は焼き払われ、その子孫はまったく分からない状態になってしまった。
 その後、一六三八年の天草の乱は鎖国を決定付け、東南アジアの日本人町を消滅させる原因となった。あちこちにいた日本人町住民を合わせれば、数万人規模だったと推測されるが、その血は数世代を経て完全に現地に溶け込んでいった。
 コロニアでは、消えた日本人町が歴史的教訓として語り継がれている。
 『文協四十年史』(ブラジル日本文化協会=当時、一九九八年)に掲載されている「日伯学園建設計画(案)」にも、次のような一節がある。
 「安土桃山時代、多くの日本人がアンナン、シャム等へ進出し、沢山の日本人町を造ったと言われているが、その中でもシャムの山田長政は国王にまで登りつめたにもかかわらず、日本の鎖国による後継移住者途絶により、現地社会の中に埋没し、現在では歴史上にただその名を留めているにすぎない。私たち日系コミュニティも、この山田長政の轍を踏まないために、日本の協力を得て生き残り策を構築しなければならないと考えている」(三百五頁)
 日本の日本人にとっての山田長政は単なる歴史上の人物だが、コロニアにとっては先達であり、他山の石だ。それゆえ、自らの将来に重ねて、切実な思いで節目節目にその名が現れる。
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 一方、スペイン南部のセビリア県コリア・デル・リオ市(人口二万人余り)には約四百年前の支倉常長率いる慶長遣欧使節メンバーの末裔を名乗るハポン(Xapon)姓の人たちが六百人も住んでいるという記事が読売新聞一九九六年十一月九日と二〇〇三年十二月三日に掲載された。二つの記事を総合すると以下の内容になる。
 仙台藩主・伊達政宗が一六一三年(慶長十八年)にスペイン領だったメキシコとの直接交易を目論見、約百八十人が木造帆船で外交使節団として派遣された。
 同使節団は一六一三年に仙台を出発し、メキシコを経由してスペインには翌年到着し、最終目的地であるローマで一六一五年に法王に謁見した。
 丁度その頃、日本では一六一二年に岡本大八事件(キリシタン大名がからんだ疑獄事件)が起き、家康が大名諸侯にキリスト教禁止を通達し、翌年には側近が「排吉支丹文」を書いて明文化し、以降、全国的に迫害が強まった。
 遣欧使節団は帰路、幕府がキリスト教弾圧の動きを強めたことを知り、五人がコリア・デル・リオ市にとどまった。
 同記事によれば、一六二二年にハポン姓の農業従事者を記した古文書が残っているほか、一六四六年のスペイン王室の国民徴兵名簿にバルトメ・ハポンの名前が存在しているのが証拠だという。
 〇三年十一月一日に、日本大使館の呼びかけでハポン姓四十人が集まった。スペイン・日本常倉恒長友好協会のカルバハル・ハポン会長によれば、ハポン姓をもつスペイン人は六百四十五人も確認されている。
 同記事には「駐スペイン田中克之大使は『学者たちは九割は間違いないといっており、それを尊重する方がロマンがあると思う』という」とある。九〇年代中頃に在聖総領事となり、ペルーの日本大使公邸占拠事件で陣頭指揮を執って活躍した、あの田中氏だ。
 スペインにおいては姓だけは残った。百年を経過したブラジル日系社会の三百年後は、どうなるのか。(つづく、深沢正雪記者)

写真=読売新聞の記事

ニッケイ新聞 2009年4月24日付け


日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(10・終)=ポルトガルに〃日系人〃?!=奴隷解放で再び日本人登場

 スペインには四百年前の日本人の末裔が、少なくとも六百四十五人確認されていると前回紹介した。ならば、ポルトガルはどうなのか。日本姓が残っているという話は聞かないが、日本人奴隷がポルトガルまで連れてこられたことは前述のようにあちこちに歴史的な記述があり、事実と考えて良さそうだ。
 中隅さんは『ブラジル観察学』(無明舎、一九九五年)の中で、日本人奴隷がポルトガル本国で混血したことが、ブラジルにも間接的に影響しているという興味深い考察をのべている。
 「もともとポルトガル人は雑種の国民で出自や毛並みの良さを誇るわけにはいかないのだ。(中略)ポルトガル人は十六世紀の時代から日本や中国と交渉があり、日本人女性の奴隷も相当数ポルトガル人に買われている。当然混血児が出てくることになるわけだが、このようにアジア人に対する違和感が歴史的に薄いのである」(『観察学』二百八十九頁)と旧宗主国、植民者たちの性格特性を分析し、それゆえ、現在の伯国の寛容性が生まれたのだとの興味深い論理を展開する。
 しかも、ポルトガルは小国ゆえ人口が少ない。「一五二七年にこの国(ポルトガル)はじめての国勢調査が行われ、百四十万人の数字が出ている」(『観察学』百八十頁)というから、今の日系人口より少ない。
 もし、同国に五千人の日本人奴隷がいたのであれば二百八十人に一人の割合だ。混血を重ねたであろうから〃日系人〃の割合は低くない。時代と共に混じって薄まったとはいえ、ある意味、日本人のDNA(遺伝子)は広まったともいえる。
 つまり、四百年前の日本人奴隷の存在は、混血を通して、旧宗主国ポルトガルのDNAとして元々ブラジル人一般にも受け継がれていたと考えられる。現在のような親日的な伯国風土が生まれた遠因かもしれない。
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 ブラジルで長きに渡る黒人奴隷時代が終焉した時、ふたたび日本人が現れる。ポルトガル時代の混血から数えれば、百年前からの日本人の血が入っているのは「二度目」と言えなくもない。
 一八八八年のアウレア法が黒人奴隷を禁止したため、コーヒー農場の労働力が足りなくなり、最初にドイツ、スペイン、イタリアなどの欧州移民が導入された。奴隷同然のあまりの酷い待遇に欧州からの送り出しが減ると、日本から導入されることになった。
 人間以前、単なる商品だった「奴隷」に人権が認められたのが、二十世紀初めの「コロノ(農業労働者)」といえる。笠戸丸移民が到着した頃はまだ奴隷制時代の余韻が色濃く残っていた時代であり、黒人奴隷の代わりに日本移民が大量に導入され始めたのが百一年前だ。
 なんの因果かしらないが、農場の奴隷同然の労働から逃れた日本人が住み着いたのは、逃亡黒人奴隷などの首つり処刑をした旧ラルゴ・ダ・フォルカ周辺だった。ブラジル帝国時代の一八五八年にラルゴ・ダ・リベルダーデと改名され、現在はプラッサ・ダ・リベルダーデと呼ばれる。東洋人街として戦後、生まれ変わった。百周年の昨年は実はリベルダーデ改名百五十周年でもあった。
 セー広場周辺だけが市街地だった十八世紀、名誉ある死を遂げた人は市内に埋葬された。リベルダーデ広場周辺はまだ市外地であり、一七七五年に処刑場および不名誉な死を遂げた人の墓地が作られた。
 「処刑=魂が自由(リベルダーデ)になる」ことに由来する歴史を今に伝えるのは、エスツダンテス街の中ほどにあるアフリットス(苦しめられた人々)街だ。どん詰まりにある、墓地のカペラ(礼拝堂)は今もひっそりと鎮魂ミサを続けている。
 若宮丸の歴史からさらに二百年さかのぼる戦国時代に、日伯関係の始まりがあってもおかしくない。研究者諸氏の奮闘により、その記録が発掘されること期待したい。
 このような歴史から何が学ぶかが百一年目の課題であろう。(終わり、深沢正雪記者)