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2012/03/01

【福島第1原発事故から1年】事故調査・検証委員会中間報告書から振り返る(1号機 官邸・保安院 東電)

2012年3月1日 毎日新聞

東日本大震災1年:福島第1原発事故 電源多重化、課題多く ミス複合、事態深刻化

 東日本大震災から間もなく1年。東京電力福島第1原発で起きた炉心溶融事故により、大量の放射性物質が放出された。福島県災害対策本部によると、現在も約16万人が自宅を離れての暮らしを強いられ、大地や海の汚染、農産物被害は依然深刻だ。事故はなぜ起きたのか。被災を免れた他の原発では再稼働に向けた動きが始まっているが、安全対策は万全なのか。福島第1のような事故はもう二度と起きないのだろうか。

◇防波壁かさ上げ、完備まで2年--安全対策

 福島第1原発事故を機に、日本の原発の安全対策はどう変わったのか。中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)で2月21日、安全対策を取材した。

 「60%、70%……。弁、全開!」。3号機の原子炉建屋地下1階で、原子炉格納容器の圧力を下げるベント(排気)の訓練に当たる社員が叫んだ。

 福島の事故では、ベント操作の遅れが炉心溶融につながった。停電すると弁の操作ができなくなるため、浜岡原発では手動でも弁操作ができない事態に備えて窒素ガスの圧力で弁を操作する手順を新たに整備した。建屋2階には窒素ボンベが出番を待つ。

 海岸沿いでは、津波防波壁の建設工事が進んでいた。海面からの高さは18メートル、厚さ2メートル。今年12月完成予定で、原発の施設を1・6キロにわたって取り囲む。基礎は鉄筋コンクリートを地下40メートルの深さまで打ち込む。「防波壁の全体像が見えれば、再稼働への理解も得られると思うのですが……」。建設作業を見守る社員がつぶやく。

   ◇

 福島の事故は、想定を大きく上回る天災と、危機意識の欠如からくる人災との複合災害だ。象徴的だったのが、命綱ともいえる電源確保対策の破綻。事故前、電力各社が持っていた対策は、▽隣接する原子炉から電気を融通する▽非常時に原子炉を冷やす原子炉隔離時冷却系(RCIC)が稼働している間に電源を復旧させる。しかし福島では、外部から電気を引き込む変電所や送電線が被災し、津波によって非常用発電機やバッテリーが水没した。

 経済産業省原子力安全・保安院は事故後の昨年3月末、電源や浸水対策の強化を含む「緊急安全対策」を電力会社に指示した。しかし原子炉を安定冷却するのに必要な電力を供給できる電源車は、配備完了までなお時間が必要だ。津波対策でも、各社が津波防波壁のかさ上げを計画したが、完備まであと2年程度はかかる見通しだ。

 保安院はさらに昨年6月、水素爆発の防止策▽緊急時の通信手段の確保▽がれき撤去用の重機の配備--を電力会社に求めた。「電源の多重化」など事故を教訓にした30項目の対策もまとめ、安全対策の強化を内外にアピールしている。

 NPO法人「原子力資料情報室」の伴英幸・共同代表は「事故原因の完全解明が済んでいないのに、福島第1原発と同様の事故を防げると考えるのは時期尚早」と指摘する。

 例えば福島第1原発が震災前に想定していた地震は、揺れの加速度で600ガル、津波の高さは5・7メートル。これに対し、実際には最大675ガルの揺れと13・1メートルの津波に襲われた。伴さんは「これまで甘かった地震や津波の想定などを早急に見直さなければ、信頼は取り戻せない」と話す。



◇ストレステストに批判も--再稼働




 安全対策が進まない一方で、国は、停止中の原発の再稼働を目指している。その前提として導入したのが、原発の安全への備えを測る「ストレステスト(安全評価)」だが、再稼働の可否をこのテストで判断することには、専門家の間でも批判がある。

 ストレステストは、原発が設計上の想定を超える地震や津波に襲われ、原子炉建屋や重要機器などが壊れて炉心損傷に至ると仮定した場合、現状がどの程度の余裕を持っているかを調べる。日本では、炉心損傷までの余裕を測る1次評価(停止中の原発対象)と、炉心損傷後の事故の深刻化を抑える対策まで考慮する2次評価(運転中の原発対象)の2段階で実施する。



 再稼働へ向けた手続きは、まず電力会社が各原発で実施したストレステストの1次評価結果を評価書にまとめ提出。これを保安院が審査し、内閣府原子力安全委員会の確認作業を経て、最終的には野田佳彦首相と、藤村修官房長官、枝野幸男経産相、細野豪志・原発事故担当相--の3閣僚が再稼働の可否を判断する。

 さらに再稼働には、地元自治体の合意が不可欠だが、福島の事故を踏まえた新しい安全基準の策定を求めるなど慎重な自治体が多い。2月末現在、8社が16基の1次評価を保安院に提出したが、再稼働までこぎつけた原発はゼロ。4月下旬にも、北海道電力泊(とまり)原発3号機が停止すると、日本にある商業用原発54基すべてが止まる、史上初の事態を迎える。

 これまで提出された1次評価結果によると、地震は想定の1・29~2倍の揺れ、津波は1・5~6・2倍の高さになっても炉心損傷には至らない。外部電源を失っても10・7~104日は安全に原子炉を冷やすことができるとした。この「余裕度」が大きいほど安全性は高いと言えるが、それは「想定が正しい」ことが大前提だ。福島第1原発事故は、想定を甘く見積もり、備えもそれに応じて甘かったために起きた。

 全国の原発が、地震の揺れや津波の高さを想定し、余裕を持たせて設計されている=地図、グラフ。だが、これらの想定の多くは、06年の耐震設計審査指針改定を踏まえた再検証を終えていない。商業用原発で検証を済ませた東電柏崎刈羽原発1号機では、想定地震動が450ガルから2300ガルに上方修正された。

 保安院は今年2月、最初に提出された関西電力大飯(おおい)原発3、4号機の1次評価結果を「妥当」とした。だが、保安院の意見聴取会メンバーである井野博満・東京大名誉教授と後藤政志・芝浦工大非常勤講師は「住民の安全性の判断に必要な2次評価が未提出で、再稼働ありきの見切り発車」と批判する抗議文を発表した。








◇津波算定方法を規定--指針

 事故は日本の原発の「安全神話」を崩壊させた。同時に、すべての原発がよって立つ安全指針の信頼性も揺らいでいる。
 原発を造る際の基準となる指針類は約70種類。原子力安全委員会(班目(まだらめ)春樹委員長)は事故を受け昨年6月、改定作業に着手した。3月末までに中間取りまとめを公表、4月発足予定の原子力規制庁が引き継いで法制化に生かしたい考えだ。

 ■津波
 津波については、06年改定の耐震設計審査指針に「極めてまれではあるが発生する可能性がある津波によって施設の安全機能が重大な影響を受ける恐れがないこと」としか記載がない。原発周辺で起きる最大規模の津波を想定するよう求めながら、津波高の算定方法も定めていない。
 事故後の改定案では、想定津波の高さの算定方法を規定する。周辺の地震動調査だけでは「限界がある」として、海外で起きた大津波の発生機構とも比べて参考にするよう求める。
 想定を超えた場合の対応については、指針ではなく、電力各社に「過酷事故対策」を義務づけ、建屋や機器の耐水性を強化することなどを求めた。

 ■電源喪失
 今回の事故で明らかになった指針類の大きな不備は、原発施設の基本設計を定めた「安全設計審査指針」(90年策定)が、福島第1で起きた長時間の全電源喪失を「考慮しなくてよい」としている点だ。93年、安全委の作業部会は長時間の全電源喪失が炉心損傷につながる危険性を指摘しながらも「日本では電源の早期復旧が期待できる」として見直しを見送った。日本の安全審査では、全電源喪失は長くても30分程度で、その時間をしのげるだけの設備を備えれば容認されてきた。
 非常用電源も失った福島第1原発の場合、電源喪失は9~11日間に及んだ。事故後の改定案では、非常用発電機が機能しない場合の代替電源の設置を義務づけた。


◇東海第2の「幸運」 首都圏救った70センチ

 津波に襲われた原発は福島第1原発だけではない。同原発の南、東京都から130キロの太平洋岸に建つ茨城県東海村の日本原子力発電東海第2原発は辛うじて冷温停止できた。何が明暗を分けたのか。

   ◇

 「もし防潮壁を引き上げていなかったら、福島と同様、深刻な事態に陥っていただろう」。海風が吹きつける第2原発の岸壁で、震災当日勤務していた原電社員が振り返った。最も海側の「非常用ポンプエリア」には、10年9月に完成した高さ6・1メートルの防潮壁がある。これが「首都圏に最も近い原発」を救った壁だ。

 それまでの防潮壁は高さ4・9メートル。スマトラ沖大地震(04年)の後、茨城県は07年、独自に津波の浸水想定区域図(ハザードマップ)を作製し、想定津波高を4・9メートルから5・7メートルに引き上げた。これを受けて原電は、非常用ディーゼル発電機の冷却ポンプ3基があるこのエリアに、1・2メートル高い防潮壁を設置した。

 3月11日、実際に到達した津波の高さは最大5・4メートル。新しい防潮壁はわずか70センチ高かった。ポンプ3基中2基は、2日前の3月9日に止水工事が完了したばかりで浸水を免れた。工事が終わっていなかった1基はケーブル用の穴から海水が浸入して水没。1基がダウンしたことで、冷温停止までに3日半を要した。

 今年2月、同原発を視察した横浜国大の小林英男客員教授は「(壁の引き上げを)即実行したことが成功した。東海第2は他の原発にとっても非常にいい教訓になる」と指摘した。一方、引き上げるきっかけとなったハザードマップをまとめた「津波浸水想定検討委員会」委員長の三村信男・茨城大教授は「我々が当初想定した震源は実際と異なっており、今回の津波の到来を『当てた』わけではない。しかし、歴史的に考え得る最大の津波を想定したことが結果として役立った」と話す。

 防潮壁自体も大型漂流物の衝突には耐えられない構造だった。もし船舶や自動車がぶつかっていれば倒壊し、3基とも水没していただろう。実のところは幸運も手伝った「薄氷の冷温停止」(原子力安全・保安院幹部)だったといえる。






◇事故のあらまし




 11年3月11日、三陸沖でマグニチュード9・0の地震が発生、高さ約13メートル(東電推計)の津波が到達した。運転中の1~3号機は地震で自動停止(4~6号機は定期検査中)したが、地震と津波により外部電源や発電所内の非常用電源などほぼすべての電源を失い、原子炉や使用済み燃料プールの冷却ができなくなった。1~3号機は過熱して炉心溶融が発生。1、3、4号機の原子炉建屋では水素爆発が起き、大量の放射性物質が外部に放出された(5、6号機は冷温停止)。国際評価尺度ではチェルノブイリ原発事故と並ぶ「レベル7」。


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◇非常用復水器、作動と誤解--現場


 事故はどうして起きたのか。政府の事故調査・検証委員会(委員長・畑村洋太郎東京大名誉教授)が昨年12月に公表した中間報告書から振り返る(文中の肩書は事故当時)。

 第一に、炉心を危機から守るための作業が適切になされなかった。報告書は非常時に1号機(3月12日に水素爆発)の炉心を冷やす「非常用復水器(IC)」の作動状態を吉田昌郎(まさお)所長らが誤解していたこと、さらに3号機(3月14日に水素爆発)への注水操作に不手際があったことを指摘している。

 「3月11日午後4時42分、1号機の原子炉の水位が低下」「同日午後5時50分、1号機原子炉建屋付近の放射線量が上昇」

 1号機では電源喪失後、ICの弁が閉じ機能していなかった可能性がある。正常に動いていないことを示す兆候も次々と出ていた。

 しかし、現地や東京都千代田区の本店は、11日午後11時50分まで「ICは作動している」と誤解。消防車による外部からの注水や、炉内圧力を下げるベント(排気)の遅れにつながった。

 なぜか。運転員は、訓練や教育を含めてICの作動を経験しておらず、操作に習熟していなかった。本店も適切な助言や指示ができなかった。報告書は「状況を正しく評価していれば、ICに関して誤解しなかったはず」と記す。過酷な事態に対処する訓練や教育が不十分だった。

 3号機では、地震から2日後の13日午前2時42分、運転員が別の注水手段に切り替えるため、高圧注水系(HPCI)を止めた。しかし別の方法による注水に失敗。発電所内の連携不足もあり、吉田所長ら幹部が状況を把握したのは、HPCI停止から1時間余りたった後だった。対応が後手に回り、状況は一層悪化した。

 報告書は1、3号機について「代替注水が順調だったら水素爆発を防げたかは判断できないが、炉心損傷の進行を遅らせ、放射性物質の放出量を抑え、その後の作業を容易にした可能性はあった」と指摘する。


◇場当たり的な対応--官邸・保安院






 報告書は危機の司令塔となるべき首相官邸や経済産業省原子力安全・保安院の場当たり的な対応も取り上げた。

 地震発生直後、東京都千代田区の官邸地下にある危機管理センターに関係省庁幹部や担当職員が集まり、情報収集や支援策の検討に入った。しかし同センターは情報保全のため携帯電話の電波が届かない。電話回線も混雑し、情報収集は困難を極めた。

 そのころ官邸5階の執務室では、菅直人首相が関係閣僚や原子力安全委員会の班目春樹委員長、東京電力の武黒一郎フェローを集め、避難区域の設定や原発の対応について協議していた。しかし地下のセンターでは5階の状況が把握されないまま対策が練られていた。さらに官邸側から現地への助言のほとんどは、吉田所長が既に着手しているものが多く、実際には役に立っていなかった。

 保安院は地震後、霞が関の経産省別館3階に緊急時対応センター(ERC)を設置。ここに4、5人の東電社員が派遣された。しかし、ベントの準備状況について明確な情報が得られないなど、東電社員から最新の情報を集められなかった。約600メートル離れた東電本店では、テレビ会議システムで現場の状況を把握していたのに、保安院職員は状況確認のため東電本店に出向くこともせず、東電に「正確な情報を早く上げて」と依頼するだけで、監督官庁として効果的な指導や助言をしなかった。

 一方、原発から放出された放射性物質の拡散状況を予測する文部科学省の「緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)」は十分に活用されなかった。実際には、放出された放射性物質の量や種類などのデータが停電でSPEEDIに送信されなかったため拡散量を算出できなかったが、文科省は「毎時1ベクレル放出された」との仮定で拡散予測を計算していた。

 問題は、その結果を政府も福島県も避難などの検討に活用せず、結果を公表する発想も持たなかったことだ。そのため一部の住民の避難先が放射性物質の飛散方向と重なり、無用な被ばくを招いた。報告書によると、事故直後の基準で「除染が必要」とされるレベル(その後上方修正)の被ばくが確認された住民は1003人(昨年10月末現在)。「住民の命と尊厳を重視する立場でデータの重要性を考える意識が希薄だ」。報告書は批判する。


◇災害を軽視、備えに不足--東電

 津波を含む自然災害を軽視し、過酷な事故に発展するとの想像力や事故対策も不十分だった。

 東電は02年、津波の評価方法を示した土木学会の「原発の津波評価技術」に基づき、福島第1原発で想定される津波の高さを3・1メートルから5・7メートルに引き上げた。08年には国の長期評価などを基に試算し、津波は「15メートル超」となった。

 これに対応する防潮堤の設置には、数百億円の費用と約4年の歳月がかかると見積もられた。当時の武藤栄原子力・立地副本部長と吉田昌郎原子力設備管理部長は、長期評価を「仮想的な数値」と軽視し、対策に結びつかなかった。その後の試算でも、三陸沖で869年に起きた貞観(じょうがん)地震の研究結果から、福島沿岸に到達する津波は8・6~9・2メートルになるという結果を得ていたが見過ごされた。

 背景には、備えるべき「過酷事故」として故障や人的ミスばかりを想定し、津波などの自然災害を対象外にしていたことがある。報告書は「極めて大きな問題点の一つ」と指摘している。想定の甘さ、それに伴う備えの甘さ、関係者の連携不足などが複合的に絡み、事態を深刻化させた。

◇東電「食い違いはない」

 東電広報部は政府事故調の中間報告書について「綿密に調査した結果であり、事実関係について大きな食い違いはない。ただ、1号機の非常用復水器に関しては、電源喪失のタイミングによって弁が閉じることもあれば開いた状態の可能性もあり、事故時に弁の開閉状態を認識し、対応するのは困難だった」とコメントした。

 事故をめぐっては、「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)が独自に調査を実施。2月27日に公表した報告書では首相官邸の危機管理のまずさなどを指摘した。国会が設置した「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)も6月に報告書をまとめる予定。 
 2012年3月1日

http://mainichi.jp/select/jiken/graph/1year20120301/index.html

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   福島第1原発:東電、ベント着手遅れ 首相「おれが話す」

毎日新聞 201144日 233分(最終更新 44日 1456分)


 東日本大震災から一夜明けた3月12日午前6時すぎ。菅直人首相は陸自ヘリで官邸屋上を飛び立ち、被災地と東京電力福島第1原発の視察に向かった。秘書官らは「指揮官が官邸を不在にすると、後で批判される」と引き留めたが、決断は揺るがなかった。


 「総理、原発は大丈夫なんです。構造上爆発しません」。機内の隣で班目(まだらめ)春樹・内閣府原子力安全委員会委員長が伝えた。原発の安全性をチェックする機関の最高責任者だ。


 第1原発は地震で自動停止したものの、原子炉内の圧力が異常に上昇した。東電は格納容器の弁を開放して水蒸気を逃がし、圧力を下げる作業(ベント)を前夜から迫られていた。班目委員長は「視察の前に、作業は当然行われていたと思っていた」と振り返る。だが、着手は遅れた。


 首相は官邸に戻った後、周囲に「原発は爆発しないよ」と語った。


 1号機でようやくベントが始まったのは午前10時17分。しかし間に合わず、午後3時半すぎに原子炉建屋が水素爆発で吹き飛ぶ。「原発崩壊」の始まりだった。致命傷ともいえる対応の遅れは、なぜ起きたのか。


 ◆        ◆


 11日、東電の勝俣恒久会長は滞在先の北京で震災の一報を知る。心配する同行者に「情報がない」と漏らし顔をゆがめた。衛星携帯で本店と連絡を取り続けたが、帰国できたのは翌12日。清水正孝社長も出張先の関西から帰京できない。東電はトップ不在のまま対策本部を置く。


 一方、官邸の緊急災害対策本部。当初、直接東電とやりとりするのではなく経済産業省の原子力安全・保安院を窓口にした。「原子炉は現状では大丈夫です」。保安院は東電の見立てを報告した。


 しかし、事態の悪化に官邸は東電への不信を募らせる。菅首相は11日夕、公邸にいる伸子夫人に電話で「東工大の名簿をすぐに探してくれ」と頼んだ。信頼できる母校の学者に助言を求めるためだった。


 11日午後8時30分、2号機の隔離時冷却系の機能が失われたことが判明する。電源車を送り込み、復旧しなければならない。「電源車は何台あるのか」「自衛隊で運べないのか」。首相執務室にホワイトボードが持ち込まれ、自ら指揮を執った。


 官邸は東電役員を呼びつけた。原子炉の圧力が上がってきたことを説明され、ベントを要請した。しかし東電は動かない。マニュアルにはあるが、日本の原発で前例はない。放射性物質が一定程度、外部へまき散らされる可能性がある。


 「一企業には重すぎる決断だ」。東電側からそんな声が官邸にも聞こえてきた。復旧し、冷却機能が安定すればベントの必要もなくなる。


 翌12日午前1時30分、官邸は海江田万里経産相名で正式にベントの指示を出した。だが、保安院は実際に行うかどうかについて「一義的には東電が決めること」という姿勢を変えない。国が電力各社に文書で提出させている重大事故対策は「事業者の自主的な措置」と位置づけられている。


 「東電はなぜ指示を聞かないのか」。官邸は困惑するばかりだった。首相は「東電の現地と直接、話をさせろ」といら立った。「ここにいても何も分からないじゃないか。行って原発の話ができるのは、おれ以外に誰がいるんだ」。午前2時、視察はこうして決まった。


 事故を防ぐための備えは考えられていた。しかし、それでも起きた時にどう対応できるか。班目委員長は取材に「自分の不明を恥じる」と言ったうえで、こう述べた。「その備えが足りなかった」



      ◆


 東日本大震災から人も国も再び立ち上がるには何が必要なのか。教訓を得るというには重すぎる出来事を後世にどう伝えればいいのか。あらゆる現場を見つめ直し、長い時間をかけて考え続けなければならない。随時掲載する「検証 大震災」の初回は、かつてない原発の大事故に政府や東電が当初どう対処したのかを報告する。【震災検証取材班】



http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/04/04/20110404k0000m010149000c.html


毎日新聞 201144日 233分(最終更新 44日 1456分)





内閣広報室

平成23年3月12日(土)午前2-内閣官房長官記者会見

政府インターネットテレビ    https://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg4477.html

福島第1原発ベントについて 
総理による現場視察 
緊急災害対策本部、原子力災害対策本部の招集

耳コピ(文責 NKDM4) 挨拶は省略

枝野官房長官
私からご報告を3点させていただきます。
 まず一点は、当事者である東京電力および経済産業大臣からも発表を致しておりますが、福島第一原子力発電所について、原子炉格納容器の圧力が高まっているおそれがあることから、原子炉格納容器の健全性を確保するため、内部の圧力を放出する措置を講ずる必要があるとの判断に至ったとの報告を東京電力より受けました。経済産業大臣とも御相談をいたしましたが安全を確保する上でやむを得ない措置であると考えるものであります。

 この作業に伴い、原子炉格納容器内の放射能物質が大気に放出される可能性がありますが、事前の評価ではその量は微量とみられており、海側に吹いている風向きも考慮すると現在取られている発電所から3キロ以内の避難、10キロ以内での屋内待機の措置により住民の皆さまの安全は十分に確保されており、落ち付いて対処頂きたいと思います。

 既に21時23分に菅総理が発した避難指示に沿って、半径三キロメートルの地区の避難は完了を致しました。
この避難指示の内容に変更はありません。従って、現地の住民の方々は自衛隊、警察、自治体などの指示に冷静に従って頂きたいと思います。

モニタリングカーの測定によると、現時点で放射性物質の施設外への漏洩は確認をされておりません。先ほどの措置のとられた後もしっかりと放射性物質の測定を定期的に行い、その情報については、ほぼ直ちにと言っていいようなタイミングで経産省及び官邸に届けて頂くよう指示を致しております。

なお、現地は24時ちょうど前後に池田経済産業副大臣が現地に到着をいたしております。現在、支援体制を池田副大臣の陣頭指揮の下、全力で整えております。不確実な情報に惑わされることなく、確実な情報に従って行動するようお願いを致します。

(00:03:46)
 二つ目に、今回の災害の状況、実態をいち早く把握をする為、特に、ただいまの原子力発電所の事態についてしっかりと把握することも含めて、明日の朝、総理自ら現地を訪れることとしたい、失礼いたしました。日付変わっておりますので、本日の早朝、陽が上がりましたら総理自らヘリコプターにて現地を訪ねるということで、今、最終的な調整をいたしております。
6時に官邸のヘリポートを出まして、福島のただいまの原子力発電所、ここは現地に降りれるという方向(報告?)でございます。そして、更に、上空から海岸部の被災状況を直接把握をした上で、10時50分に官邸に戻る、こういう予定で朝一番、総理自らヘリコプターによって被災状況を直接把握をするという行動をとると言う最終調整を致しております。
確定し詳細が決まりましたら、張り出しという形でお報せすることになるかと思います。

(00:05:22)
 三つ目でございます。夜間も救難活動は全力で行っておりますが、本日の夜が明けまして救難状況、そして被災状況の整理をしたうえで、明朝は朝8時30分に総理は現地の視察をして頂いておりますが、緊急災害対策本部、並びに原子力災害対策本部を明日の朝8時半、招集を致します。私からは以上でございます。


(00:06:08)
共同通信
総理が原発を視察される時というのは、既にもう原発での大気への作業というのはやってるんですか。

枝野官房長官
はい。

記者
大気への作業というのは何時頃やるんですか

枝野
これは東京電力が技術的な点、含めて、最終的な調整をする話でありますが、これを行う前にしっかりと国民の皆さんに予めご報告しなければならない、いうことを東京電力のほうに要請というより指示をいたしまして、それでこの時間に経済産業省及び官邸でご報告しましたので、そんなに遠くない時間になると思っております。


毎日新聞
総理の上空からの視察というのは、福島よりも以北に行かれるんでしょうか

枝野
今、ぎりぎりの日程の組みをやっているところでおりますが、出来るだけ北の方まで上がりたい。仙台沖ぐらいまでは行けるのではないだろうかという状況ですが、正確にはまだ確定はしておりません。

記者
それからもう一点、原発の話なんですけども、大気放出しなくちゃいけなくなったというのは、バッテリーが間に合わなかったという事なのか、間に合わなかったとしたらその原因はどうしてなんでしょうか。

枝野
詳細は技術的なこともございますので、経済産業省において東京電力ならびに原子力安全保安院と共に報告をさせていただいているところでございます。


(00:07:56)
テレビ朝日 
風向きによって海側に行けば問題ないという事なんですが、これ、仮に風向きが変わって住民がいる方にいった場合に、健康への被害というのはどの程度のものですか。

枝野
現時点では、当面、西または北西の風、で、かなり安定した状況であろうということは気象庁からも報告を受けています。

記者
その場合、風向きが住民の方にいった場合の健康被害というのは

枝野
基本的には、そもそも、放射性物質の量が微量とみられる、ということがその評価の基本であります。それに加えて、風向きということもある。ということが、そういった意味ではプラス面のもう一つの要素であるという事でございます。
総理自ら、発電所そのもののすぐ側まで明日、視察に行くと言う調整をしているという状況でその点については、ご認識いただけるのではないかと思っております。


読売新聞 
総理が福島原発に到着する時間帯はいつ頃を想定されているんでしょうか。

枝野
1時間半強ぐらいかかるのではないか、1時間半にプラスアルファぐらいかかるのではないかと思っておりますが、今まさにフライト計画等、詳細を詰めている状況でございます。

(00:09:27)
記者
現地ではどのような視察をされるのでしょうか。

枝野
まさに総理はこうした技術も含めて専門的な素養をお持ちでございます。
この間も具体的にいろんな報告を受けながらやっております。現地では、炉の状況その他ですね、具体的な説明を現地の当事者、専門家から受けるものと思っております。


所属聞きとれず
記者
多くの国民はこの会見、明日の朝、観ると思うんですが、二日目を迎えた国民に対してメッセージをお願いします。

枝野
本当に明治以来、以降では最大の規模の日本を襲った地震ということであります。
大きな被害が出て、残念ながら多くの方々が亡くなられているという状況であります。亡くなられた方のご冥福をお祈りし被災された方にお見舞いを申し上げるとともに、政府の持てる力、総力を既に発揮して救済救援活動にすでに取り組んでおります。大変厳しい状況の中で、二日目の朝を迎えられてる方が多々おられると思いますが、全力を挙げて政府として救援に取り組んでおりますので是非冷静な対応の元で自らの安全を確保する努力、そして地域の皆さん、ご近所の皆さん、ご家族の皆さんとの連携・協力助け合いの中でこうした状況を乗りきる努力をお願いを申し上げるとともに、重ねて政府としては持ちうる能力の最大限の力を発揮するそういった状況で既に対応を致しております。


(00:11:26)
記者
原発の話にちょっと戻るんですが、先ほど1時40分に出された発表資料で、予測の時間帯が書かれてまして、27時20分に原子炉格納容器設計最高圧に到達。原子炉格納容器ベントにより放射性物質が放出される。という、ここには何時っていうふうに書かれていないんですけども、これは、3時20分発(?)と思うんですが、この辺の説明をちょっとして頂きたい…。

枝野
それは多分、原子力保安院が可能性をお示しをしたものだろうというふうに思っておりますが、そうした可能性の前提も含めて、実際にベントを開けるという段階よりも前に、ちゃんときちっとご説明申し上げなければいけないということで、3時で、経産省と私のほうとで発表すると言う事でございますので、具体的な詳細な時間は、まさに現場の作業の手順、段取り等によりますので若干のズレが在り得るかと思いますが、そう遠くない時間に圧力を下げる措置に着手するものと思っております。

記者
ということは、現時点では○○(努力?)がすすんでいるということではないと…。

枝野
少なくとも発表してからにしてくれという事は要請というよりはかなり指示に近い形で東京電力のほうにはもう伝えてあります。経産省、そして私のほうでもう発表致しましたので、作業の手順に必要ならば入っていてもおかしくはないと思います。


テレビ朝日
その原発の件なんですが、現在の復旧に向けた作業状況、例えば電源車が何台到着しただとか、復旧するんであれば、目処があるんであればその目処を…

枝野
電源車はそうした電源を使うことでですね、対応をするための一部は作業に入っていると言う報告は受けております。詳細は経済産業省、保安院のほうにお尋ね頂ければと思います。


(00:13:38)
産経新聞
原発に行くということなんですけれども、これはそもそも総理の発案なのか、それともどういった経緯で(持ちあがった?)話なんでしょうか。

枝野
総理ご自身も、まさに安全確保の為の止むを得ない措置であるという事の中ではありますが、まさに自らその安全性含めてですね、しっかりと把握をしなければならない。それから現地の状況もいろいろな状況は入って当然来ております。ヘリコプター、自衛隊や警察、消防等の状況も入って来てはおりますが、是非直接把握をした上で、対応の陣頭指揮をとらなければいけないという強い思いが、総理のほうにあるということであります。



記者
現地ではですね、東電の職員含め、警察消防等ですね、緊迫した状況にあると思うんですけども、総理が行くことによってそうした対応に支障がきたすという懸念というのは…

枝野
従って、福島の原発以外のところは上空からの視察という計画をたてております。

記者
福島の原発は総理が行っても、つまりいろんな人員を割かれると思うんですけど、総理が行くことで。それは特に問題がないんでしょうか。

枝野
基本的には、これは具体的な警護の関係の話になってしまいますので余り詳細に話すべきではありませんが、基本的には、現地の受け入れ、基本的にお会いになれるのは、現に原子力発電所の保安をしている担当のところの人しかいないところでありますので、警備にしても対応にしても逆に言うと、そういった所なので、きちっと状況の把握の為に必要な対応だけで足りるという事で、実際に経産大臣、保安院、東京電力などとご相談をして、ご迷惑、逆にその事、行くことによるご迷惑がないという判断を致しました。


朝日新聞
まず一点が、今回の総理の視察ですね、視察にかかる時間が約4時間という事ですが、その間またですね、余震、大規模な余震等があった場合の対応について総理が不在という事に対するリスクはどのように考えているのかというのがまず一点と、もう一点は原発…まずその点から

枝野
当然のことながら私が官房長官として明日の8時半の緊急災害対策本部については私の下で開かせて頂きます。
因みに原子力災害対策本部のほうは副本部長が、海江田経産大臣でありますので海江田経産大臣が責任者という事で開きます。そうしたことで情報の収集、整理、それによる各省間の調整は私や海江田大臣の下でしっかりと行います。
また勿論、様々なリスクが常にあるわけでありますが、今、この甚大な被害の状況と云う事が分っている状況で、その甚大な被害の状況そのものをですね、出来るだけ直接認識をして、特に海岸部の情報が必ずしもこれはメディアの皆さんもそうだと思いますが、充分に把握できない状況の中にありますので、総理自らそうした状況を出来るだけ早く、直接に把握をすることで、その後の対応には大きな力になるのではないか、こういう判断であります。

記者
福島県ですね、南相馬市が防衛省の報告なんだと思いますけど、1800世帯が壊滅状態であると、防衛省のほうからもう既に官房長官に報告があったということと、1800世帯が壊滅状態であるというのは、かなり相当な人的被害が想定されるんですが、その点について官房長官の…(聞きとれず)ますでしょうか。

枝野
具体的な報告は当該地域についても、報道より前に頂いております。
そうした点も含めてですね、大変大きな被害が発生をしているというなかで、少しでも今救援を待っていらっしゃる皆さん、或いは避難所等に寒い不安な夜を過ごしていらっしゃる皆さんに対して、一刻も早く、最大限の支援をして参りたいというふうに思っています。



日経新聞
原子炉の圧力を下げると言う事は、炉内の蒸気を…(聞きとれず)

枝野
技術的なところは経済産業省のほうで保安院や東京電力含めてご説明申し上げると思います。


時事通信社
総理の視察はこちらからどういった職員が同行し何人ぐらいの規模を想定している…

枝野
大きな航空機、ヘリコプターは物資の輸送、それから救援活動に使いますので、そんなに多くない人数になるというふうに思っております。


読売新聞
警察庁等発表されてるんだとは思うんですが、現時点での死者、行方不明者の数を把握されてる

枝野
それは警察庁と消防庁におたずねに下さい。


中国新聞
先ほどの、基本的には放射性物質は微量であるという判断ということですけど、例えば人によって放射線への感受性は違うといわれてるんですが、それは一定程度の科学的根拠に基づいてこういう措置をとられる、或いは総理が行かれる…

枝野
(枝野氏の横で控えている誰かに向って)委員長だよね?さっき…
(記者に向かって)原子力安全委員会の委員長、第三者的な立場の方にも官邸に入って頂いて、直接状況を共有して頂いて、そのうえでご意見を頂いています。



==会見終了==




震災当日、東電社長の輸送機が防衛省指示でUターン

産経新聞  2011.4.26 01:30 

 東京電力の清水正孝社長が、福島第1原子力発電所が深刻な事故に見舞われた3月11日の東日本大震災当日、出張先から東京に戻るため航空自衛隊の輸送機で離陸後、防衛官僚の判断でUターンさせられていたことが25日、分かった。被災地救援を優先させるべきとする北沢俊美防衛相の意向をくんだ過剰反応ともいえる。しかも、輸送機がいったん離陸したことは北沢氏に報告されておらず、官僚との間で十分な意思疎通が図れていなかったことが、結果的に清水社長を足止めする原因となった。

 清水社長が都内の本店に戻るのは翌12日午前10時までずれ込み、防衛省内には「離陸した輸送機をUターンさせるロスを考えれば、そのまま飛行させるべきだった」(幹部)との指摘もある。

 自衛隊関連行事での民間人の政権批判を封じた昨年11月の防衛事務次官通達をはじめ、防衛省・自衛隊は民主党政権から「政治主導」の圧力を受けていたが、危機管理の重要局面でいびつな関係があらわになった形だ。

 清水社長は震災当日、関西に出張中で、奈良市の平城宮跡も視察した。東電によると清水社長は午後3時ごろ、帰京すると伝えてきたが、東京に向かう高速道路が通行止めとなり、奈良から名古屋まで電車で移動。名古屋空港から東電グループの民間ヘリで帰京しようとした。だが、航空法の規定でヘリは午後7時以降は飛行できなかった。

 防衛省によると、午後9時半ごろ、首相官邸にいた運用企画局長に対して、清水社長を空自輸送機に搭乗させるよう要請があった。官庁間協力に基づく、経済産業省からの働きかけとみられる。


 清水社長は名古屋空港と同じ敷地内にある空自小牧基地からC130輸送機に搭乗。11日午後11時半ごろ入間基地(埼玉県)に向けて離陸した。

 防衛省では同じ11時半ごろ、運用企画局事態対処課長が北沢氏に「東電の社長を輸送機に乗せたいとの要請がある」と報告。北沢氏は「輸送機の使用は(東日本大震災の)被災者救援を最優先すべきだ」と強調した。

 これを受け、事態対処課長は統合幕僚監部などを通じ、空自部隊に清水社長を搭乗させないよう指示しようとしたが、すでにC130は離陸していた。ただ、離陸直後だったため、課長は即座にUターンするよう求めた。同機は離陸から約20分後にUターンし、12日午前0時10分ごろ小牧基地に着陸した。

 課長は清水社長が搭乗したC130が離陸し、それをUターンさせたことを北沢氏に報告していなかった。北沢氏は最近までこうした事実関係を把握していなかった。

 課長は産経新聞の取材に「大臣指示を受け、災害派遣医療チーム(DMAT)など人命救助のための人員輸送を最優先すべきと判断し、Uターンを求めた。判断は適正だったと考えている」と述べた。

 清水社長は12日早朝、チャーターした民間ヘリで名古屋空港を離陸し、本店に到着したのは午前10時ごろだった。清水社長が不在の間、第1原発では原子炉内の水が失われ炉心溶融が進む一方、原子炉内部の放射性物質を含む蒸気を外部に逃す「ベント(排気)」と呼ばれる措置も遅れた。

アーカイブ



WSJ 2011/4/27 14:00

震災当日に東電社長乗せた自衛隊機Uターン-防衛省が指示



【東京】政府は26日、東京電力の清水正孝社長が3月11日の東日本大震災とそれに伴う津波を受けて福島第1原子力発電所で事故が発生して数時間後に出 張先から航空自衛隊の輸送機でいったん離陸した後、政府の判断で引き返していたことを明らかにし、被災者救援のための輸送に自衛隊輸送機が必要だったと説明した。

枝野幸男官房長官と北沢俊美防衛相は、26日の記者会見でこの事実を確認。大地震と原発事故発生直後の判断において、著しい重圧と混乱が生じていたことが浮き彫りになっている。


 このことからも、東日本大震災発生後、清水社長が出張先の関西地域から同日中に統合連絡本部を置く東京の同社本店に引き返せなかった理由の説明がつく。 本来なら清水社長は東電の危機対応チームを率い、原子炉格納容器の圧力を下げる作業(ベント)といった緊急措置を承認するところだ。


 清水社長が東電本店に不在だったために、事故発生直後の数時間という極めて重要なときに難しい決断を下すことに遅れが生じた可能性があると一部では指摘されている。

3月12日朝になってようやく清水社長が東京に戻った際、福島第1原発1号機では燃料棒が過熱し、容器内の圧力が危険な水準に達していたが、東電はベント作業を開始していなかった。専門家らはベントの遅れが同日の同原子炉建屋での爆発につながった可能性があると指摘している。


 清水社長は先月12日朝、東京に向かうヘリをチャーターした。同社長は滞在先から事態の対応に当たり、すべての対処は適切だったと述べている。


北沢防衛相と枝野官房長官は26日の記者会見で、東電の清水社長による自衛隊輸送機の利用を拒否する判断を擁護し、3月11日夕方には社長が東京に戻る他の手段があったと主張した。

枝野官房長官は、東電の社長が動けないようなところで立ち往生していたのであれば自衛隊機への要請は理解できるが、「名古屋-東京間は車を飛ばしても走れる状況だった。なぜ、自衛隊に頼んだのか」と反論した。


一方、東電の広報担当者は、先月11日のマグニチュード9の大地震直後には主要な高速道路は閉鎖され、新幹線も走っていない状態だったと言及した。さらに、清水社長は名古屋まで東進できただけだったと述べた。


清水社長は自衛隊に対し輸送機での東京への移動を要請し、担当者らの承認を得て、同社長を乗せた自衛隊機は午後11時30分に名古屋を離陸した。

しかし、北沢防衛相は実際、その10分前の午後1120分に被災者救援のための輸送を最優先すべきだとして、清水社長の要請を拒否していた。自衛隊の担当者が清水社長を乗せた自衛隊機に名古屋へ引き返すよう命じた。その結果、清水社長は翌朝になって東京に到着した。


アーカイブ



福島第1原発:東電社長、地震当日は夫人同伴で奈良観光

毎日新聞 2011年5月28日 2時30分

 東日本大震災が発生した3月11日前後の清水正孝・東京電力社長の行動が27日、毎日新聞の取材で明らかになった。東電が説明していた「関西財界人との会合のための出張」とは異なり、奈良・平城宮跡や東大寺の修二会(しゅにえ)(お水取り)見物が主で、平日に夫人、秘書同伴という観光目的の色彩が極めて強く、業務に相当するような公式行事はなかった。東電は清水社長の夫人同伴の関西出張を認めておらず、東電側の隠蔽(いんぺい)体質が改めて浮き彫りになった形だ。

 毎日新聞の取材に対し東電は「清水社長の日程は、相手のいることなので公表できない。否定も肯定もしない」と答えるだけで、詳細を明らかにしていない。

 関係者や奈良県によると、清水社長ら3人は3月10日午後、2泊の予定で奈良市のホテルにチェックイン。11日に、夫人同伴で東大寺(奈良市)のお水取り観賞が予定されていた。

 清水社長は11日午後、電気事業連合会会長として平城宮跡を「視察」。見学中の午後2時46分に大震災が発生し、視察を切り上げ、同日夜の宿泊とお水取りの観賞を取りやめた。電事連は、平城宮跡をメーン会場に開かれた平城遷都1300年祭に協賛していた。

 関西財界人との会合について、関電首脳は「清水社長に会っていない」と否定し、他の主要関西企業トップも清水社長との懇談を否定している。清水社長の平城宮跡視察についても、東電広報部は「公表できない」としか答えていない。

 大震災後、清水社長は奈良から愛知県に移動したとされるが、奈良からいったんタクシーで神戸空港(神戸市)に向かったとの情報もある。その後、航空自衛隊小牧基地から輸送機で東京都千代田区の本店に戻ろうとしたが、輸送機が途中で引き返したため帰京できず、翌12日午前に民間ヘリで東京に戻った。

 震災発生時、勝俣恒久会長も中国出張で東京を不在にしていた。

 この間、東京電力福島第1原発は冷却装置が機能せずに炉心溶融(メルトダウン)が進み、チェルノブイリと並ぶ最悪の原発事故に発展した。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110528k0000m040139000c.html

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