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2011/12/19

金正日総書記の軌跡と語録

≪死去した金正日総書記の足跡≫
2011/12/19 13:58 KST
17日に死去した北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記の主な足跡は以下の通り。

▼1941年2月:白頭山密営で誕生。父は故金日成(キム・イルソン)主席、母は金正淑(キム・ジョンスク)氏(ロシア・沿海州で出生したという説もある)

▼1945年:ソ連から帰国

▼1950~52年:中国・吉林市内の学校に留学

▼1961年7月:朝鮮労働党に入党

▼1964年6月:党組織指導部指導員

▼1966年:党組織指導部責任指導員

▼1967年5月:党宣伝扇動部文化芸術指導課課長

▼1970年:党宣伝扇動部副部長

▼1973年6月:党宣伝扇動部部長

▼1973年9月:党秘書局組織・宣伝担当秘書

▼1974年2月:党政治委員会委員に選出され、後継者に決定



▼1980年10月:第6回党大会で党中央委員会委員、党政治局委員、党政治局常務委員、党書記局書記、党中央軍事委員会委員に選出

▼1982年:金主席との年齢の差を30年にするため、生年を1942年に変更し宣伝

▼1982年8月:最高人民会議第7期代議員(黄海北道・松林)

▼1983年:中国・胡耀邦総書記(当時)の招待で後継者として初訪中

▼1986年11月:最高人民会議第8期代議員(咸鏡南道・龍城)

▼1990年4月:最高人民会議第9期代議員(咸鏡北道・茂山)

▼1990年5月:国防委員会第1副委員長

▼1991年12月:党中央委員会第6期19次全員会議で朝鮮人民軍最高司令官に就任

▼1992年4月:軍元首の称号

▼1993年4月:最高人民会議第9期5次会議で国防委員長に推挙される

▼1997年10月:党総書記に推戴

▼1998年7月:最高人民会議第10期代議員(第666号選挙区)

▼1998年9月:国防委員長に再び推挙される

▼2000年5月:北朝鮮最高指導者として初訪中

▼2003年8月:最高人民会議第11期代議員(第649号選挙区)

▼2008年8月:脳血管の疾患で倒れる

▼2009年3月:最高人民会議第12期代議員(第333号選挙区)

▼2009年4月:国防委員長に推挙される

▼2010年9月:第3次党代表者会で党書記局総書記、党政治局常務委員、党政治局委員、党中央委員会委員、党中央軍事委員長に任命される

▼2011年8月:ロシア極東地域と中国訪問

▼2011年12月17日:午前8時30分に列車で死亡

http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2011/12/19/0200000000AJP20111219002600882.HTML







【主な語録】 金正日総書記は2000年6月の南北首脳会談の後、公式の場に姿を見せることが増え、生の声がマスコミを通じて伝わった。

        ◇  ◇  ◇    

◆「英雄的朝鮮人民軍将兵らに栄光あれ」(1992年4月25日、朝鮮人民軍創建60周年閲兵式)

◆「(外国メディアなどは)隠とん生活と言うが過去、中国、インドネシアにも行き、非公式訪問もしたのに、金大統領が来てくれ、隠とんから解放された」(2000年6月14日、南北首脳会談で当時の金大中=キム・デジュン=韓国大統領との会話)

◆「日本をよく“近くて遠い国”と言うが、われわれは日本と“近くて近い国”になる準備ができている。日本との国交正常化を望んでいるが、それは日本の決定にかかっている。日本人はまず拉致だ何だという話をやめ、過去の清算など根本問題を解決するため誠意と真実を持って努力しなければならない」(00年6月30日、在米韓国系ジャーナリスト、文明子氏とのインタビュー)

◆「私がそう発言したなら、明日にでも米国と国交を樹立する。米国がテロ国家の帽子をわれわれにかぶせているが、これを外しさえするなら、すぐ国交を樹立するだろう」(00年8月12日、韓国マスコミ社長団との懇談)

◆「拉致の問題について説明したい。1970年代、80年代初めまで、特殊機関の一部に妄動主義、英雄主義に走ってこういうことを行ってきたと考える。これらの関連で責任ある人々は処罰された。遺憾なことで率直におわびしたい」(02年9月17日、日朝首脳会談で小泉純一郎首相との会話)

◆「われわれはいつか一度は米国のやつらと最後の決死戦を繰り広げるであろう。強硬には超強硬で立ち向かうのが私の戦争観である」(03年7月27日の朝鮮戦争休戦協定締結50周年を記念した叙事詩)

◆「安否不明者はあらためて早期に本格的に徹底して調査する。日本も参加して結構だ。白紙の状況で再調査したい」(04年5月22日、日朝首脳会談で真相究明を求める小泉首相との会話)

◆「自分たちも核兵器を持ちたいとは思っていない。朝鮮半島の非核化が最終目標であるのは基本的な考えだ。ただ米国が先制攻撃を言っている以上、核抑止力を持たねばならない」(04年5月22日、日朝首脳会談で小泉首相との会話)

◆「多くの経済特区を見てまわり、中国人民の進取的かつ頑強な努力と相応の結実に新しく大きな感動を受けた」(06年1月10~18日、中国訪問の歓迎宴で中国の胡錦濤国家主席らに)

◆「今後、人民軍隊に歌謡伴奏(カラオケ)機材をもっと送ろうと思う。支給された各中隊は今、雰囲気が完全に変わっている。兵士と軍官がより高い点数を取ろうと猛烈に頑張っており、歌のうまくない軍人も興味を覚え歌いたがっている」(06年3月、軍指揮官への言葉を労働新聞が報道)

◆「ウサギ飼育でこの牧場の収めた誇りに満ちた成果は、草を食肉に転換するというわが党の政策の正当性と活力をはっきりと誇示するものである」(07年9月25日、牧場支配人の家に立ち寄った際)

◆「私は病人でもないし、大統領がお見えになったのに、家で寝転がっているわけにはいかない」「(開城)工業団地だけならいいが、北(北朝鮮)の別の地域まで(インターネットが)つながると問題が多い。私もインターネット専門家だ」(07年10月3日、南北首脳会談で盧武鉉=ノ・ムヒョン=大統領との会話)

◆「私がまるで糖尿病や心臓病のように報道されているが、事実は全く違う」「私が少し動いただけでも大きく報道する。記者ではなく作家のようだ。それでも私に対する大きな報道は気分が悪いものではない」(07年10月4日、南北首脳宣言署名後の昼食会)

◆「資本主義社会は一言で言って、腐って病んだ社会であり、前途がなく、滅亡に近づく社会である」(07年11月14日、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」で報道)

◆「私とて、どうしてきつい時がなく、祝日の1日だけでも家族らとともに気楽に休みたいと思わないことがあろうか。私も最高司令官である前に人間であり、誰よりも生活を愛している」(08年5月21日、労働新聞で報道)

◆「わが人民がいまだとうもろこしの飯を食べていることに、私は最も胸が痛みます」(10年2月1日、労働新聞で報道) (ソウル支局)