ページ

2011/06/13

具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々な〈ミスの連鎖〉が悲劇を招いた。

避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小






 東日本大震災で全校児童の約7割にあたる74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校で、地震発生から児童らが津波にのまれるまでの詳細な状況が13日、市教委や助かった児童の保護者らへの取材で明らかになった。

 学校側が、具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々な〈ミスの連鎖〉が悲劇を招いた。




 市教委の調査などによると、3月11日午後2時46分の地震発生時は、児童は下校中か、「帰りの会」の途中だった。校舎内の児童は教師の指示で校庭に集合し、学年ごとに整列した。下校中の児童もほとんどが学校に戻った。

 午後3時頃、点呼を終えると、教頭と数人の教諭が桜の木の下で、「山へ逃げるか」「この揺れでは木が倒れるので駄目だ」などと話し合っていた。学校の津波の際の避難マニュアルは避難場所について「高台」としていただけで、具体的な場所を記していなかった。

 ただ、津波被害を受けた周辺の5小中学校のうち、1校には避難マニュアルがなく、作成していた4校のうち1校は避難場所を「校庭」としていた。

 一方、防災無線からは大津波警報が鳴り、避難を呼びかける声が響いていた。余震が続き、泣き出したり、嘔吐(おうと)したりする子もいた。保護者らが相次いで児童を迎えに訪れ、教諭は対応にも追われた。「ここって海岸沿いなの」と不安がる女子児童や、「死んでたまるか」と口にする男子児童もいて、騒然とした雰囲気になった。

 当時6年生の女児を連れ帰った母親(44)によると、母親が担任に「大津波が来る」と慌てて伝えた際、担任は「お母さん、落ち着いてください」と話した。しかし、すぐに避難する様子はなく、「危機感がないようだった」という。暖を取るため、たき火をしようとした教諭もいたとの証言もあったが、市教委は確認できなかったとしている。

 市教委の調査では、その後、市の広報車から「津波が松林を越えてきた。高台に避難してください」と呼びかける声が聞こえた。教諭と、この時も、集まった地域住民の間で「山へ逃げた方がいい」「山は崩れないのか」などのやり取りがあった。結局、約200メートル先の北上川堤防付近にあり、堤防とほぼ同じ高さ6~7メートルの高台に避難することになった。

 避難を始めたのは地震から約40分後の午後3時25分頃。約10分後の午後3時37分頃、6年生を先頭に、学校の裏手から北上川沿いの県道に出ようとしたところで波が襲い、高台ものまれた。

(2011年6月13日14時55分 読売新聞)










児童74人死亡・不明の大川小 教員の意見割れ、40分経過
 全校児童の約7割に当たる74人が津波により死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小で、地震発生後に児童らを校庭に集めてから避難開始までの混乱した様子が、市教育委員会の調査で浮かび上がってきた。津波を想定した避難先が事前に決まっていなかったため、教員らが避難先をめぐって議論。迎えに来た保護者への対応にも追われ、40分が瞬く間にすぎたとみられる。保護者の多くは調査結果に納得せず、学校側の責任を追及する姿勢を強めている。

 同校と市教委は4日夜に飯野川一小で開いた保護者説明会で、児童らの聞き取り調査の結果を報告した。出席者によると、3月11日の地震発生を受けて学校にいた児童は全員が校庭に避難。午後2時52分、防災無線のサイレンが鳴り、大津波警報が発令された。午後3時ごろ、点呼を終え、教頭と教員数人が集まって避難先について検討した。
 この時点で「山へ逃げるか」「木が倒れるのでこの揺れでは駄目だ」という話をしていた。避難先をめぐって教員たちが議論している間にも、防災無線は「海岸沿いは危険ですので高台に避難してください」と呼び掛けていた。余震が続き、恐怖のため泣きだす子や「山さ逃げよう」という男子児童もいた。
 教職員は一方で、児童を迎えに来た保護者や避難してきた住民の対応にも追われた。児童を保護者に引き渡すため名簿をチェックしたり、避難してきた住民が体育館などに入ろうとするのを制止したりする必要があったという。
 市教委は説明会で「迎えにきた保護者が(自分の子の)友達を連れて帰ろうとしても認めなかった先生もいた。『今帰ると危ないのでここにいた方がいいですよ』と話す先生もいた」と報告したという。
 地震から約40分後の3時25分ごろ、市河北総合支所の広報車が「長面の松林を津波が超えてきました」「高台に避難してください」と伝えているのを聞き、ようやく新北上大橋のたもとの三角地帯と呼ばれる小高い場所に逃げることを決め、避難を開始した。山沿いの裏道を進み、三角地帯に続く県道に出ようとしたところで、左前方から津波が襲ったという。


2011年06月06日月曜日
















http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110415/dst11041500080003-n1.htm






その時 何が(6)奇跡の避難(釜石)
◎教え通りひた走る/在校の子ら犠牲ゼロ

 死者・行方不明者が約1300人に上る釜石市。大槌湾に面した鵜住居(うのすまい)地区は津波で壊滅状態となったが、鵜住居小と釜石東中にいた児童、生徒計約570人は全員無事だった。中学生や小学校の上級生が小さな子どもたちの手を引いて逃げるなど、両校の迅速な避難劇は「奇跡」とも言われている。3月31日の朝刊は、前日の釜石東中の卒業式で平野憲校長(53)が「君たちは誇りだ」との言葉を贈ったと伝えている。

 あと4分、5時間目の授業が終わるのはもうすぐだった。激震に見舞われた午後2時46分。鵜住居小には1~6年生の児童約360人がいた。
 「恐怖のあまり、泣いている子もいた」。当時6年生のクラスを受け持っていた横沢大教諭(28)が振り返る。

 指示はすぐ飛んだ。3~6年生は最上階の3階へ集まり、1、2年生は校庭へ出た。真壁信義副校長(49)は「申し合わせ通りの動き」と話す。
 尋常ではない揺れ。外を見れば、隣接する釜石東中の生徒たちがバラバラになって南へ走っている。教師たちは即座に「逃げろ」と号令を掛けた。時計は午後3時を指す直前だった。
 停電で放送機器は使えない。約20人の教職員は声を張り上げ続けた。「走るんだ!」。目指したのは南へ約600メートル離れた民間の介護施設「ございしょの里」。泣きじゃくる1、2年生の手を上級生が引いた。

 釜石東中の生徒約210人ら、介護施設に集まった両校の児童生徒は約570人。そこは指定避難所でもあった。施設の入所者や職員、近所の住民も加えると700人はいた。突然、中学校の教員が叫んだ。「裏の山林が崩れそうだ」
 子どもたちはまた、走った。目指したのは南に約400メートルの「やまざき機能訓練デイサービスセンター」。中学生は小学生と手をつないだ。大人も逃げた。

 ございしょの里に小学1年と4年の娘2人を迎えに来たパート及川真美子さん(32)は「迎えに来た親たちも、一緒に逃げた」と言う。

 午後3時20分ごろ。学校の方角を見ると、十数メートルの高さの津波が両校の校舎を丸ごとのみ、介護施設も襲い、迫ってきた。「逃げないと危ない」。誰彼となく悲鳴のような声が上がった。

 児童の一部はデイサービスセンター東側の山林を駆け上がり、残りはさらに南へ、走った。

 津波はデイサービスセンターの手前で止まった。想定浸水区域から1キロ先にまで達していた。

 鵜住居はすり鉢の底にあるような街だ。両校の北には大槌湾に注ぐ鵜住居川河口があり、南は山林が迫る。西はわずかに平地があり、高い建物などない。

 同地区では7割近い建物、市の被災全体の4割に上る約1800戸が被災したが、小中学校では一人の犠牲者も出さなかった。

 釜石東中の村上洋子副校長(53)は「日ごろの防災教育のおかげ」と語る。4年前から群馬大などと協力し、津波防災教育を授業に導入した。2年前からは年に1度、鵜住居小と合同訓練も実施。「小学生を先導する」「まず高台に逃げる」との教えを徹底してきた。

 三陸地方には、津波が来たら取る物も取らずてんでばらばらに逃げるという「てんでんこ」の言い伝えがある。
 「『てんでんこ』が大事だって何度も教わっていた。思いっきり走った」と、3年生の佐野凌太君(15)は言う。
 当日、欠席などしていた両校の3人は津波の犠牲になった。「奇跡」の裏には悲しみもあった。
(山口達也)


2011年05月19日木曜日