減災、未来への義務 堆積物、歴史を証明
堆積物調査と巨大津波の震源域
1. 千島海溝
北海道から三陸まで1000㌔以上の沿岸に残る堆積物から導かれた新たな仮説に注目が集まる。
従来、三陸沖が震源とされた慶長三陸津波(1611年)は、北海道東方沖の千島海溝沿いのM9級巨大地震だったとする平川一臣・北海道大特任教授の説だ。北海道東方沖では、北大などの堆積物調査から、過去約6000年に15回大津波があったと分かり、国は05年に「500年間隔地震」として最大M8.5級を想定。直近は17世紀初めに起きたとされる。
一方、慶長三陸は古文書から宮城県内の津波被害が知られていた。平川さんは、東日本大震災
後に調査範囲を三陸にも拡大。17世紀初めに大津波が2回あったことを示す痕跡はなく、慶長三陸
と500年間隔地震の「同一説」を提唱した。その場合、震源は色丹島沖から襟裳岬沖に広がり、M9級とみる。GPS(全地球測位システム)観測から、十勝ー釧路沖と根室半島ー色丹島沖に大地震を
起こすひずみがたまっているとの報告もある。巨大地震の「満期」は近付いている。
2. 日本海溝
平川一臣・北海道大特任教授は一連の調査で、三陸中部から下北半島沖でも、過去3000年間に1000~1200年の間隔でM9級の地震が起きた可能性があるとの説を発表した。東日本大震災の震源域と北海道東方沖の「500年間隔地震」の中間にあたる空白域で、これまで注目されなかった海域だ。
根拠の一つは、北海道南西部・渡島(おしま)半島東側の内浦湾の奥にある高さ7㍍の崖に残った堆積物。ほぼ円形の内浦湾は津波が入りにくい地形上の特性がある。大震災や従来の500年間隔地震に基づく想定では、この場所に残った堆積物を十分に説明できず、新たな震源域を想定する必要があると考えた。最後の発生は800~900年前とみられ、平川さんは「切迫性が高い」とみる。これまで十分にお子縄手いない下北半島の調査がこの震源域を精査するカギを握る。
大震災の震源域について、国の地震調査研究推進本部は昨年、M9級の発生間隔を600年程度と公表したが、これも堆積物から導かれた。東北地方の太平洋沿岸で過去2500年間に4回の大津波の痕跡が確認された。
3. 関東近海
首都圏を襲うM8級の海溝型地震(関東地震)について、政府は「今後100年以内に発生する可能性はほとんどない」としている。房総半島西側を震源域とする関東大震災(1923年)と同じ「大正型」の発生周期は200~400年に1回、震源域が半島東側に拡大する元禄地震(1703年)と同じ「元禄型」は約2300年に1回だからだ。
しかし、産業技術総合研究所の宍倉正展・海溝型地震履歴研究チーム長が、巨大地震で隆起を繰り返す房総半島南部で海岸段丘の地層を年代測定した結果、大正型とも元禄型とも
周期が異なるM8級地震の存在が浮上した。この地震の周期は分かっていない。
また、東京大地震研究所は三浦半島の堆積物調査で、1293年の鎌倉大地震が元禄地震の一つ前の関東地震と推定した。
このほか、国の地震調査研究推進本部は三陸沖から房総沖の日本海溝沿いの地震で起きる巨大津波を懸念する。震源域の北側は東日本大震災ですでに動いたが、南側の房総沖はひずみが蓄積されたままと考えられる。
4. 南海トラフ
高知大の岡村真教授と松岡裕美准教授らの研究グループは93年ごろから、西は宮崎県新富町の湖水ヶ池から東は静岡県の浜名湖まで太平洋沿岸の約30カ所の湖沼で津波堆積物を調査。過去3500年間に繰り返した巨大津波の存在を明らかにしてきた。特に注目を集めたのは、大分県佐伯氏の龍神池の調査だ。ここでは東海・東南海・南海地震の三つの震源域が連動した1707年の宝永地震(M8.6)の堆積物が残る一方で、規模が小さい1854年の安政南海(M8.4)と1946年の昭和南海(M8.0)の両地震は残っていない。このため、見つかった8層の津波記録は、宝永級の地震が300~700年に1回起きたことを示す。宝永地震から300年たち、次の巨大地震がいつ起きてもおかしくない。震源の西端は従来想定の高知県沖ではなく、宮崎県沖の日向灘に広がる可能性もある。中央防災会議は土佐湾沿岸を高さ10㍍超の津波が襲うと予想する。
高知県土佐市の蟹ヶ池では宝永より厚い堆積物が約2000年前の地層から見つかった。宝永でも津波が流入しなかった徳島県阿南市の蒲生田大池でも同じ年代に堆積物があった。宝永を上回るM9級の超巨大地震が当時起きていた可能性を示す。宝永を上回る超巨大地震や津波がどのように起きるのかは謎とされてきたが、東日本大震災の発生で現実味を帯び、昨年12月には政府の想定対象になった。東京大の古村孝志教授らの津波シミュレーションでは、宝永の震源域と南海トラフ寄りにある1605年の慶長地震(m8.2)の震源域が連動すると「大胆に仮定」した場合、M8.9に達し、津波の高さは宝永地震時の1.5~2倍になった。
5. 琉球海溝
八重山諸島では石垣島を中心に死者1万2000人を出した明和大津波(1771年)の堆積物調査から、琉球海溝沿いのプレート境界が引き起こす巨大地震の解明が進められている。
明和大津波では、直径10㍍の巨岩など多数の「津波石」が沿岸部に打ち上げられた。浸水範囲を克明に記した古文書と照らし合わせると、津波は最高で高さ30㍍まで駆け上がったとみられる。東日本大震災でも30㍍を超えた地点は多くない。
調査した千葉工業大の後藤和久上席研究員は「同じ30㍍でも石垣島のほうが規模は大きかった」と指摘する。到達前に島を囲むサンゴ礁で津波の力はかなり弱められているからだ。この地震はM7.4とされてきたが、琉球大の中村衛准教授(地震学)は「M8.0~8.5の可能性が高い」と話す。